2024/02/26

2024年時点・Google Meetを解約したわけ お朝勤と法話と座談の動画付き 「Budismo Bádico 土曜日のお朝勤 『凡夫(ぼんぶ)』とはお経の鏡に映る私の姿" Ser tolo" é o meu verdadeiro reflexo no espelho dos Sutras.」

Google Meetを一時解約したわけ 

Google MeetからZoomへの移行の決意

Googleが開発したGoogle Meetには、YouTubeとのシームレスな連携を期待していました。一ヶ月の契約を試み、その機能性を探求しましが、期待に反していくつかの技術的な障壁に直面しました。特に、音声のハウリングが頻発し、オンライン法要で20名近くの参加者との円滑なコミュニケーションが困難であることが明らかになりました。参加者からのフィードバックも同様で、以前Zoomを使用した場合にはこれらの問題が発生しなかったとのことでした。

 そこで私は、Zoomを使用してのオンラインイベントの可能性を探ることに決めました。もちろん、遭遇した問題がアプリ自体の問題なのか、それとも私の使用方法に起因するものなのかを見極めることも重要です。私の目標は、ネットを通じた法事や勉強会をより効果的に、より参加者にとって魅力的にする方法を見つけることにあります。理想としては、YouTubeでのライブ配信を行いつつ、オンライン座談会への参加と切り替えがスムーズに行えるようなシステムを構築することです。Google Meetではそのような機能は見つけられませんでしたが、技術の進化には常に目を光らせ、より良い解決策を模索し続けます。

技術は日々進化しています。私たちのコミュニケーション方法もまた、それに合わせて変化し続けるでしょう。今回の体験は、その進化の一部であり、私は引き続き最新のテクノロジーを学び、理想的なオンラインイベントの実現に向けて努力を続けます。

以下実際の動画

Budismo Bádico 土曜日のお朝勤 にて。

以下は動画内の法語の解説です。

『凡夫(ぼんぶ)』とはお経の鏡に映る私の姿" 

Ser tolo" é o meu verdadeiro reflexo no espelho dos Sutras.


以下法語を受けての感話です。




『凡夫』という言葉は、私たちが持つ無明や煩悩を指すものであり、これらは日々の行動や思考に深く根ざしています。お経、特に浄土真宗において重要視される教えでは、これらの煩悩が悟りへの道を阻む障害であるとされています。しかし、これらを認識し、受け入れることが、真の悟りへの第一歩となるのです。


お経は、まるで鏡のようなものです。この鏡には装飾もなく、ありのままの私たちを映し出します。日常生活で私たちが見る鏡は、時に自分の姿を良く見せようとしたり、欠点を隠そうとしたりします。しかし、お経の鏡は違います。お経の鏡は、私たちの内面、そして真実の姿を映し出します。私たちが持つ怒り、欲望、嫉妬などの煩悩は、この鏡を通じてはっきりと見えるのです。


親鸞聖人は、「凡夫」であることを自認しました。これは、自らの煩悩に満ちた存在であることを深く自覚し、それを受け入れることから始まります。私たちは、自らの煩悩を認め、それに直面する勇気が必要です。この勇気が、私たちを真の悟りへと導く鍵となります。


お経を聞くこと、仏法に触れることは、自己の真実を知ることです。耳障りの良い言葉を求めたり、自己正当化を目指したりするのではなく、自己の真実を受け入れることが重要です。そして、この過程で阿弥陀如来の光明に照らされることにより、私たちは自己の本質をより深く理解することができます。


煩悩は、私たちが意識しているときだけでなく、無意識のうちにも常に存在しています。親鸞聖人が語ったように、臨終の一念まで煩悩は消えることがありません。しかし、これを悲観するのではなく、阿弥陀如来の無限の慈悲と共に、私たちは存在するのです。怒りや憎しみを感じたとき、それは自己への苦痛でもありますが、同時に自己を深く理解する機会でもあります。


お経の鏡に映る「凡夫」の姿を通じて、私たちは自己の真実に目を向け、阿弥陀如来の慈悲の光に照らされることで、真の悟りへの道を歩み始めることができます。この道は容易なものではありませんが、お経と仏法の導きにより、私たちはその道を歩む勇気と希望を持つことができるのです。



A palavra "凡夫" refere-se às nossas ignorâncias e desejos incontroláveis, que estão profundamente enraizados em nossas ações e pensamentos diários. No ensinamento budista, esses desejos incontroláveis são considerados obstáculos no caminho para a iluminação. No entanto, reconhecer e aceitar essas paixões é o primeiro passo para a verdadeira iluminação.


Os sutras são como um espelho, sem adornos, refletindo-nos como realmente somos. Os espelhos que usamos no dia-a-dia podem, às vezes, ser usados para melhorar nossa aparência ou esconder nossas imperfeições. Mas o espelho dos sutras é diferente. Ele reflete nosso interior e nossa verdadeira forma. Através dele, nossas raivas, desejos e invejas, que são as paixões, ficam claramente visíveis.


Mestre Shinran reconheceu-se como um "凡夫". Isso começa com a profunda autoconsciência de ser um ser cheio de paixões e aceitá-lo. Precisamos ter a coragem de reconhecer nossas próprias paixões e enfrentá-las. Esta fé é a chave que nos leva à verdadeira iluminação.


Ouvir os sutras e entrar em contato com o Dharma é conhecer a verdade sobre nós mesmos. Não se trata de procurar palavras agradáveis ou tentar justificar nossos atos, mas de aceitar nossa verdadeira natureza. E, neste processo, ao sermos iluminados pela luz de Buda Amida, podemos entender mais profundamente nossa própria essência.


As paixões existem não apenas quando estamos conscientes delas, mas também inconscientemente, o tempo todo. Como Mestre Shinran disse, essas paixões não desaparecem até o momento de nossa morte. No entanto, em vez de desesperar, devemos reconhecer que existimos junto com a infinita compaixão de Buda Amida. Sentir raiva ou ódio pode ser doloroso para nós, mas também é uma oportunidade para um entendimento mais profundo de nós mesmos.


Através da imagem do "凡夫" refletida no espelho dos sutras, começamos a olhar para a verdade sobre nós mesmos e, iluminados pela compaixão de Buda Amida, podemos começar a caminhar no caminho para a verdadeira iluminação. Este caminho não é fácil, mas com a orientação dos sutras e do Dharma, podemos encontrar a coragem e a esperança para continuar nossa jornada.



わが心

鏡に映るものならば

さぞや姿の

みにくかるらん

        

                            田辺 親子



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2024/02/23

ブラジルにおけるデング熱流行と日本製ワクチン「キューデンガ」の光明

ブラジルにおけるデング熱流行と

日本製ワクチン「キューデンガ」の光明




 ブラジルのリオ州がデング熱の流行を宣言したことは、多くの人々にとって深刻な懸念材料です。今年に入ってから既に予想の20倍にあたる4万9千人以上の疑似症患者が報告され、4名が死亡しています。これは、昨年1年間に登録された患者数の96%に達するという驚異的な数値です。私自身、サンパウロ州マリリに住む者として2回のデング熱罹患経験は、この病気の深刻さを身をもって知る機会となりました。

 そんな中、希望のニュースが届きました。日本の武田薬品工業が開発したデング熱ワクチン「キューデンガ」がブラジルで承認されたのです。このワクチンは、デング熱の流行が問題となっているインドネシアや欧州でも承認を受けており、ブラジルでは2023年中の販売が見込まれています。重症化を防ぐ効果が高いとされ、米国でも承認申請がなされています。

「キューデンガ」の特徴とブラジルでの承認


「キューデンガ」は、デングウイルスの4つの型に対応しており、ブラジル国家衛生監督庁(ANVISA)により4歳以上から60歳までの接種対象として承認されました。これは、デング熱ワクチンとしてブラジルで唯一、ワクチン接種前の感染歴検査が不要とされた点で大きな進歩です。他の競合製品では感染経験がある人にのみ使用が限定されていましたが、「キューデンガ」はそのような制約がなく、より広範な人々に利用可能です。

ブラジルでのデング熱ワクチンの展開


 ブラジル保健省によると、初回分として約75万回分のワクチンが到着し、さらに追加分が予定されています。2024年中には約320万人が接種を受けることが見込まれています。特に、デング熱患者が多い地域の10~14歳の子どもたちから接種が始まる予定で、これは最も入院患者が多い年齢層です。

希望と課題


 「キューデンガ」の承認と展開は、ブラジルにおけるデング熱対策に大きな希望をもたらしています。しかし、ワクチンの供給や接種スケジュール、特定グループへの焦点など、まだ解決すべき課題も多くあります。また、リオ市ではデング熱媒介蚊の予防と対策を強化しており、市民一人ひとりの協力が不可欠であることを市保健局が呼びかけています。

まとめ


 デング熱は、ブラジルにおける公衆衛生上の大きな問題です。しかし、「キューデンガ」のような新たなワクチンの導入により、この病気との闘いにおける新たな一歩を踏み出すことができます。個人の予防策と公的な取り組みが組み合わさることで、デング熱の脅威を大きく減らすことができるでしょう。私たち一人ひとりが意識を高く持ち、適切な対策を講じることが重要です。

予防が最優先

デング熱の予防は、主に蚊に刺されないようにすることに焦点を当てるべきです。以下は、私が実践している予防策です:

  • 蚊よけ対策: 蚊が活動的な早朝や夕方には外出を避け、蚊よけスプレーやローションを使用する。
  • 環境管理: 家の周りの水たまりを排除し、蚊の繁殖場所を減らす。
  • 適切な衣服: 蚊に刺されにくいよう、長袖や長ズボンを着用する。
  • 蚊帳の使用: 睡眠中も蚊に刺されないように、蚊帳を使用する。






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2024/02/21

老・病・死を見て世の非常を悟る 『 無量寿経』 今週のことば 尾畑文正   中日新聞コラムより ブラジルポルトガル語翻訳あり

老・病・死を見て世の非常を悟る

『無量寿経』







今週のことば 尾畑文正


王族であった釈迦は、城郭の外に出て苦の現実を見たとされる。門の外とは、インド社会の貧困と差別を象徴している。そんな現実を土壌にする仏教に引かれて、何度もインドを旅した。ある年、ガンジス川沿いのベナレスの火葬場付近に一週間滞在した。


 毎日、死者たちが焼かれて灰になるまで見ていた。その炎が、与えられた命を弄んで、共に生きる世界を見失っている私を叱責するように感じられた。それは、自ら善とし他を悪として自己を絶対化して生きる私に「おまえは何者か」と問いただす炎であった。


 自己絶対化と言えば、その典型 は「やつは敵だ。敵は殺せ」とする究極の人権侵害としての戦争である。戦争が続く現在、私たちには、かつての日本の侵略戦争への無反省、現在に続く民族差別への無頓着が改めて問われている。その問題を抜きに、現在の戦争をひとごとに論じてはいないだろうか。自己絶対化は正義の顔をして現れる。


(同朋大名誉教授)






“Ao ver a velhice, a doença e a morte, a pessoa se dá conta da impermanência do mundo”


“Sutra da Vida Imensurável”


Palavras da semana 


Bunsho Obata


Diz-se que o Buda, que era da realeza, saiu dos portões do castelo para ver a realidade do sofrimento. O lado de fora do portão simboliza a pobreza e a discriminação da sociedade indiana. Atraído pelo budismo, que suja essas realidades, viajei para a Índia muitas vezes. Em um ano, passei uma semana perto do crematório em Benares, no rio Ganges.


 Todos os dias, ele observava os mortos queimarem até virarem cinzas. As chamas pareciam uma repreensão a mim por brincar com a vida que me foi dada e perder de vista o mundo em que vivemos juntos. Foi uma chama que me perguntou: "Quem é você?", pois vivo minha vida me absolutizando como bom e os outros como maus.


 Falando em auto-absolutização, o epítome disso é o direito humano supremo de dizer: "Ele é o inimigo, mate o inimigo. A guerra é a maior violação dos direitos humanos. Hoje, enquanto a guerra continua, mais uma vez somos convidados a refletir sobre a falta de remorso pela guerra de agressão do Japão no passado e sobre nossa indiferença à discriminação étnica que continua até hoje. Sem essa questão, será que não estamos discutindo a guerra atual caso a caso? A auto-absolutização aparece em face da justiça.


(Professor Emérito, Universidade de Doho)



ポルトガル語の単語とその日本語訳:


1. velhice - 老年

2. doença - 病気

3. morte - 死

4. impermanência - 無常

5. sofrimento - 苦しみ

6. pobreza - 貧困

7. discriminação - 差別

8. realidade - 現実

9. crematório - 火葬場

10. cinzas - 灰

11. repreensão - 叱責

12. inimigo - 敵

13. guerra - 戦争

14. violação - 侵害

15. direitos humanos - 人権

16. remorso - 反省

17. agressão - 侵略

18. discriminação étnica - 民族差別

19. justiça - 正義


---


翻訳にあたっての大事な構文:


1. "Ao ver a velhice, a doença e a morte, a pessoa se dá conta da impermanência do mundo” - 「老・病・死を見て、人は世の無常を悟る」

   - 主語「人」が後に来るのがポルトガル語の特徴。


2. "Diz-se que o Buda, que era da realeza, saiu dos portões do castelo para ver a realidade do sofrimento.” - 「王族であった釈迦は、城郭の外に出て苦の現実を見たとされる」

   - 関係代名詞「que」を使用して関連付ける表現。


3. "Atraído pelo budismo, que suja essas realidades, viajei para a Índia muitas vezes.” - 「そんな現実を土壌にする仏教に引かれて、何度もインドを旅した」

   - 「Atraído pelo budismo」の「pelo」は「por」+「o」で「仏教によって」を意味する。


4. "Todos os dias, ele observava os mortos queimarem até virarem cinzas.” - 「毎日、死者たちが焼かれて灰になるまで見ていた」

   - 時間を示す「Todos os dias」の表現。


5. "Falando em auto-absolutização, o epítome disso é o direito humano supremo de dizer: 'Ele é o inimigo, mate o inimigo.” - 「自己絶対化と言えば、その典型は「やつは敵だ。敵は殺せ」とする究極の人権侵害としての戦争である」

   - 「Falando em」で「~について言えば」という意味になる。


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