2024/08/13

その人を憶いて われは生き その人を忘れて われは迷う    「 金子大栄」Lembrando do Buda Amida, eu vivo. Esquecendo-me do Buda Amida, eu me perco.. Rev. Daiei Kaneko


Lembrando do Buda Amida, eu vivo. Esquecendo-me do Buda Amida, eu me perco..


Rev. Daiei Kaneko



その人を憶いて
われは生き
その人を忘れて
われは迷う


金子大栄



金子大栄の詩「その人を憶いて われは生き その人を忘れて われは迷う」は、心に深い意味を持つ言葉です。この詩は、阿弥陀仏を象徴する「その人」に対する信仰と感謝の念を表しています。


「その人を憶いて われは生き」という言葉は、阿弥陀仏の慈悲に心を向けることで、生きる力や意義を見出すことを意味しています。日々の生活の中で阿弥陀仏の存在を感じ、その恩恵に感謝しながら生きることで、心の平安を得ることができます。


一方、「その人を忘れて われは迷う」とは、阿弥陀仏を忘れることによって、自分の欲望や執着に囚われてしまい、迷いや苦しみに陥ることを指しています。仏の慈悲に背を向け、自分自身の力だけで生きようとすることは、結果として迷いの道に進んでしまうことを示しています。


この詩は、仏の教えに従い、感謝の心を忘れずに生きることの大切さを説いています。私たちは阿弥陀仏の無限の慈悲に抱かれ、その導きによって正しい道を歩むことができるのです。この気づきを日々の生活に生かし、心の平安と感謝の念を持って過ごしていきましょう。


具体例として、以下のような日常の出来事が考えられます。


 ある人が忙しい日常生活の中で、仕事や家庭の責任に追われ、心の余裕を失っているとします。そのような時に、「その人を憶いて」という言葉を思い出し、阿弥陀仏の慈悲や教えに心を向けてみるのです。例えば、仏壇に手を合わせて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで、心の中に仏の存在を感じ、安心感や感謝の気持ちが湧いてくるかもしれません。


 一方で、「その人を忘れて」という状態は、自分の力だけで物事を解決しようとする時に現れます。例えば、仕事での失敗や人間関係の問題に直面した時、自分一人で悩み、解決策が見えなくなってしまうことがあります。そのような時に、阿弥陀仏の存在を忘れ、自分の力に固執することで、ますます迷いや不安に陥ってしまうのです。


 このように、日常の中で阿弥陀仏の慈悲を感じ、感謝の念を持つことで、心の迷いや不安から解放され、安心して生活することができるのです。具体的な行動としては、日々の中で仏教の教えに耳を傾ける時間を作り、感謝の気持ちを持つことが挙げられます。これにより、心の平安を保ち、正しい道を歩むことができるでしょう。


金子大栄の詩は、阿弥陀仏の存在を思い出すことで安心して生きられること、忘れると迷いや不安に陥ることを教えています。


 具体例として、忙しい日々の中で仏に感謝する時間を持つと心が安らぎ、問題に直面した時に自分の力だけで解決しようとすると迷ってしまうことが挙げられます。日常の中で仏の慈悲を感じることで、心の平安を得ることができるのです。


金子大栄は、浄土真宗の僧侶であり、宗教哲学者としても著名な人物です。彼の詩「その人を憶いて われは生き その人を忘れて われは迷う」は、彼の信仰と宗教的な経験から生まれたものです。この詩は、阿弥陀仏への信仰とその存在を日々の生活の中で忘れないことの重要性を強調しています。


詩の背景には、浄土真宗の教えが深く根付いています。浄土真宗では、阿弥陀仏の本願力に信じることで救われるとされており、念仏を唱えることでその慈悲に感謝し、安心感を得ることができると教えられています。この詩は、そうした教えに基づき、阿弥陀仏を思い続けることの大切さと、それを忘れた時の迷いや不安を表現しています。


さらに、金子大栄自身の人生経験や精神的な探求も詩の背景に影響を与えていると思われます。彼は自己の内面と向き合い、仏教の教えを深く理解しようと努めました。この詩は、彼が見出した真理の一部を簡潔に表現したものであり、信仰生活における指針を示しているのです。




Kaneko Daiei era um monge da Escola Jodo Shinshu e também uma figura conhecida como filósofo religioso. Seu poema "Lembrando daquela pessoa, eu vivo; esquecendo daquela pessoa, eu me perco" surgiu de sua fé e experiências religiosas. Este poema enfatiza a importância de não esquecer a presença de Amida Buda na vida cotidiana.


O poema de Kaneko Daiei ensina que, ao lembrar da existência de Amida Buda, podemos viver com tranquilidade, enquanto esquecê-la nos leva à confusão e à ansiedade.


Como exemplo concreto, podemos pensar em momentos do dia a dia em que, apesar de estarmos ocupados, reservar um tempo para agradecer ao Buda nos traz paz interior. Por outro lado, quando enfrentamos problemas e tentamos resolvê-los sozinhos, podemos nos sentir perdidos. Ao sentir a compaixão de Buda em nossas vidas cotidianas, podemos alcançar a paz interior.


「**cotidianas**」は、ポルトガル語で「日常の」「毎日の」という意味です。文脈によっては、「日常的な」や「日々の」とも訳されます。


以下に、詩の解説と翻訳文から選んだ15の重要な単語とその日本語訳を示します。


1. **monge** - 僧侶

2. **Escola Jodo Shinshu** - 浄土真宗

3. **filósofo religioso** - 宗教哲学者

4. **poema** - 詩

5. **fé** - 信仰

6. **experiências religiosas** - 宗教的な経験

7. **importância** - 重要性

8. **presença** - 存在

9. **Amida Buda** - 阿弥陀仏

10. **tranquilidade** - 安心

11. **confusão** - 混乱

12. **ansiedade** - 不安

13. **exemplo concreto** - 具体例

14. **agradecer** - 感謝する

15. **paz interior** - 心の平安




絶対他力之大道

 

 

 


 

自己とは他なし絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。

 

ただそれ絶対無限に乗託す、故に死生の事また憂うるに足らず。死生なおかつ憂うるに足らず、如何にいわんやこれより而下なる事項においてをや。追放可なり、獄牢甘んずべし。誹謗、擯斥、あまたの凌辱、あに意に介すべきものあらんや。我等はむしろひたすら絶対無限の我等に賦与せるものを楽しまんかな。

 

 

宇宙万有の千変万化は、皆これ一大不可思議の妙用に属す。而して我等はこれを当然通常の現象として、毫もこれを尊崇敬拝するの念を生ずることなし。我等にして智なく感なくば、すなわち止む。いやしくも智と感とを具備してこの如きは、けだし迷倒ならずとするを得んや。

 

一色の映ずるも、一香の薫ずるも、決して色香そのものの原起力に因るに非ず。皆彼の一大不可思議力の発動に基づくものならずばあらず。色香のみならず、我等自己そのものは如何。その従来するや、その趣向するや、一も我等の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず。ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅、また自在なるものにあらず。我等は絶対的に他力の掌中に在るものなり。

 

 

我等は死せざるべからず。我等は死するも、なお我等は滅せず。

 

生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり。我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。我等は生死以外に霊存するものなり。

 

しかれども、生死は我等の自由に指定し得るものにあらざるなり。生死は全く不可思議なる他力の妙用によるものなり。しかれば、我等は生死に対して悲喜すべからず。生死なおしかり、いわんやその他の転変においてをや。我等はむしろ宇宙万化の内において彼の無限他力の妙用を嘆賞せんのみ。

 

 

請うなかれ。求むるなかれ。なんじ何の不足かある。もし不足ありと思はば。これなんじの不信にあらずや。

 

如来はなんじがために必要なるものをなんじに賦与したるにあらずや。もしその賦与において不充分なるも、なんじは決してこれ以外に満足を得ること能はざるにあらやず。

 

けだし、なんじ自ら不足ありと思いて苦悩せば、なんじは愈々修養を進めて、如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず。これを人に請い、これを他に求むるが如きは卑なり、陋なり。如来の大命を侮辱するものなり。如来は侮辱を受くることなきも、なんじの苦悩をいかんせん。

 

 

無限他力何れのところにかある。自分の禀受においてこれを見る。自分の禀受は無限力の表顕なり。これを尊びこれを重んじ、もって如来の大恩を感謝せよ。

 

しかるに、自分の内に足るを求めずして、外物を追い、他人に従い、もって己を充たさんとす、顛倒にあらずや。

 

外物を追うは貪欲の源なり。他人に従うは瞋恚の源なり。

 

 

何をか修養の方法となす。曰く、すべからく自己を省察すべし、大道を知見すべし。大道を知見せば、自己にあるものに不足を感ずることなかるべし。自己に在るものに不足を感ぜざれば、他にあるものを求めざるべし。他にあるものを求めざれば、他と争うことなかるべし。自己に充足して、求めず、争わず、天下何のところにかこれより強勝なるものあらんや、何のところにかこれより広大なるものあらんや。かくして始めて、人界にありて独立自由の大義を発揚し得べきなり。

 

この如き自己は、外物他人のために傷害せらるるものに非ざるなり。傷害せらるべしと憂慮するは、妄念妄想なり。妄念妄想はこれを除却せざるぺからず。

 

 

独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり。殺戮餓死、もとより覚悟の事たるべし。

 

すでに殺戮餓死を覚悟す。もし衣食あらば、これを受用すべし。尽くれば、従容死に就くべきなり。

 

而してもし妻子眷属あるものは、先ず彼等の衣食を先にすべし。すなわち、我が有る所のものは、我をおいて先ず彼等に給与せよ。その残る所をもって我を被養すべきなり。ただ、我死せば彼等如何して被養を得ん、と苦慮することなかれ。これには絶対他力の大道を確信せば足れり。かく大道は決して彼等を捨てざるべし。彼等は如何にかして被養の道を得るに到るべし。もし彼等到底これを得ざらんか、これ大道彼等に死を命ずるなり。彼等これを甘受すべきなり。ソクラテス氏曰く、「我セラリーに行きて不在なりしとき、天、人の慈愛を用ゐて彼等を被養しき。いま我もし遠き邦に逝かんに、天あにまた彼等を被養せざらんや」と。

 

(明治三十五年六月十日発行『精神界』所載)

 

絶対他力の救済 終





 

「我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ」


清沢満之「〔他力の救済〕」(『清沢満之全集』第六巻、329頁)

 標記のことばは、清沢満之が亡くなる二ヶ月ほど前に著した「他力の救済」の冒頭のことばです。この「他力の救済」は、清沢が真宗大学(現、大谷大学)で催された親鸞聖人誕生会に際して寄せたもので、全学生の前で読み上げられたと伝えられています。

 「他力」とは、他人の力や神頼みのことではなく、阿弥陀仏の本願のはたらきを意味します。阿弥陀仏の本願とは、一言で言えば、阿弥陀仏の浄土を依り処として生きて欲しいという、私たちに向けられた阿弥陀仏の願いのことです。阿弥陀仏はどのような境遇にある者も分け隔てせず見捨てず救う仏であり、その浄土は優劣や損得、有益無益という世間の価値観を超えた世界として経典に説かれます。

 翻って、私たちの生きる世界では、古くから性別や人種、身分の違いによって人間を分け隔てし、差別することが行われてきました。現代でも、学歴、職業、肩書き、能力の有無、健康か否かなどを基準に役に立つ人間か否かを値踏みするような世の中に私たちは生きています。確かに、高い評価を受けることは大切なことですが、そのことで傲慢となり、周囲を見下してしまうこともあるでしょうし、反対に、誰からも必要とされない状況に置かれると、生きる意欲を失い自暴自棄になることもあるでしょう。周囲の評価に一喜一憂して生きることは苦しみであり、また、自分を見失うことにもなるのです。

 阿弥陀仏の本願は、このような世の中を生きる私たちに、世間の価値観を超えた世界(浄土)に生きることを呼びかける願いとして説かれます。それは、何らかの世間の尺度で、一人ひとりの存在の尊さをはかることはできないことへの気づきを促しているのです。清沢は、この阿弥陀仏の願いである「他力」の救済を憶(おも)いおこす時、世間の価値観に縛られ自らを苦しめるあり方から解放され、生き抜くことが困難な世の中を力強く生きる道が開かれるのだ、と語るのです。

 清沢は「他力の救済」の中で、この教えがなければ人生の悶え苦しみを免れることはついになかっただろう、と語ります。絶筆となった「我信念」では、この教えがなければ「自殺を遂げていたでしょう」とさえ述べます。清沢は、生きづらさを感じ、自己肯定感をもてず、時に自死を考えることもある人生を生き抜く力を与えてくれる教えとして、阿弥陀仏の本願を讃(たた)え、学生にも語りかけていったのです。


他力の救済

 

 

 我、他力の救済を念ずる時は、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るる時は、我が世に処するの道閉づ。
 我、他力の救済を念ずる時は、我、物欲の為に迷はさるること少く、我、他力の救済を忘るる時は、我、物欲の為に迷はさるること多し。
 我、他力の救済を念ずる時は、我が処するところに光明し、我、他力の救済を忘るる時は、我が処するところに黒闇覆う。
 ああ、他力救済の念は、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟脱安楽の浄土に入らしむが如し。
我は実に此の念によりて、現に救済されつつあるを感ず。もし世に他力救済の教なかりせば、我は終に迷乱と悶絶とを免れざるべし。しかるに今や濁浪とうとうの暗黒世裡に在りて、つとに清風掃々の光明界中に遊ぶを得るもの、その大恩高徳あに区々たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや。日本他力教の宗祖親鸞聖人の御誕生会を聞き、一言もって、祝辞に代ふ。

 

 

明治36年4月1日三河大浜町西方寺に於て清沢満之謹日



スペイン語

Recordando al Buda Amida vivo Olvidandome del Buda Amida, me pierdo


Rev. Daiei Kaneko


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2024/08/08

平生になすべきことを平生になすが平生ならざることなり 国分大慶 今週のことば 尾畑文正 中日新聞コラムより

平生になすべきことを平生になすが平生ならざることなり


国分大慶


今週のことば


尾畑文正


 能登半島地震の震源地は石川県珠洲市である。そこに約50年前、原発建設が計画された。危機を感じた人々による長期の反対運動があり、建設は中止となった。もし震源地に原発ができていたらと考えるだけで恐ろしい。地震列島日本に原発はあってはならない。


 前掲句は、珠洲市と同様に被災した七尾市の安泉寺住職、国分大慶氏の言葉である。この言葉を珠洲市での原発建設に抗った人々に重ねてみると、日常生活で感じる危機意識を大事にした行動にこそ「平生ならざることなり」の重さがあるということである。


 自分もそういう危機意識を持ち、原発を必要とする大きな力に疑問を抱き続けたい。これは、ひとごとではなく「平生になすべきことを平生になす」自分の問題である。もうすぐ、広島、長崎に原爆が投下された86日、9日、日本が敗戦となった815日である。非戦平和を願い続けるのも「平生になすべきこと」である。

(同朋大名誉教授)


中日新聞コラムより






以下は、日本語の文章をブラジルポルトガル語に翻訳したものです。





"Fazer o que deve ser feito no dia a dia é, na verdade, algo extraordinário"


Kokubun Daikei


Palavra da Semana


Bunsho Obata


O epicentro do terremoto da Península de Noto foi na cidade de Suzu, na província de Ishikawa. Há cerca de 50 anos, havia um plano de construção de uma usina nuclear nessa área. No entanto, devido a uma longa campanha de oposição por pessoas preocupadas com os riscos, a construção foi cancelada. Basta imaginar o que poderia ter acontecido se a usina tivesse sido construída no epicentro do terremoto para sentir o horror. Uma usina nuclear não deve existir em um país como o Japão, localizado em uma região de frequentes terremotos.


A frase mencionada anteriormente é do reverendo Daikei Kokubun, do templo Ancenji na cidade de Nanao, também afetada pelo terremoto, assim como Suzu. Quando olhamos para as pessoas que se opuseram à construção da usina nuclear em Suzu, vemos que é importante dar valor às ações baseadas na consciência dos riscos percebidos na vida cotidiana, pois é nisso que reside o verdadeiro significado de "algo extraordinário".


Eu também gostaria de manter essa consciência de risco e continuar questionando o poder que exige a necessidade de usinas nucleares. Esta é uma questão pessoal, uma "tarefa do dia a dia que deve ser realizada no dia a dia". Em breve, será 6 de agosto, o dia em que a bomba atômica foi lançada em Hiroshima, 9 de agosto, em Nagasaki, e 15 de agosto, o dia em que o Japão perdeu a guerra. Continuar a desejar a paz e a não violência é também uma "tarefa do dia a dia que deve ser realizada no dia a dia".


(Professor Emérito da Universidade Douhō)



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