2024/02/10

再上陸? 懐かしのケンタッキーフライドチキンがブラジル・マリリア市に出店してました‼️

「驚きの再会:ブラジルの片隅で見つけた懐かしのケンタッキー」





 ブラジルの美食の宝庫に、意外な再会がありました。豊かな風土で知られるこの国では、地元の美味しいチキン料理が至る所にあります。そんな中、思いもよらない場所、マリリア市に、懐かしのケンタッキーフライドチキンが静かにその姿を現しました。


子供時代、遠い日本で憧れの存在だったケンタッキー。時が経ち、ブラジルのサンパウロで再会した時は、高価で期待外れの味にがっかりしたことを覚えています。そして、その店が消えた時、だろうなーと思ったことです。ブラジル地元のチキン料理に叶わなかったのでしょう。


 しかし、人生は予想不可能です。地元マリリアに、まさかのケンタッキーが開店し、私の中の子供の心が躍りました。妻と購入を決意し、その味を再び口にすると、懐かしさとともに新たな驚きがありました。価格は手頃で、チキンの品質は記憶を超えるものでした。初回のハンバーガーとポテトは少し物足りなさを感じましたが、チキンそのものはまさに昔のケンタッキーの味。そして、2回目の訪問では、すべてが一層美味しく感じられました。セット内容を変更すると少し価格は上がりましたが、そのボリュームに満足でした。


時には予想外の場所で、懐かしい味との再会があるものです。ブラジルのマリリアで見つけたケンタッキーは、そんな小さな奇跡の一つでした。年に数回、この特別な場所を訪れることで、過去と現在が繋がる瞬間を味わいたいと思います。


ちなみにマリリアショッピングはこちら、このショッピングの中で食べることができます。

Marília Shopping

所在地: R. dos Tucunarés, 500 - Jardim Maria Martha, Marília - SP, 17507-280
営業時間: 

電話: (14) 3402-9500









ケンタッキーの歴史(特にブラジル)


 KFC(ケンタッキーフライドチキン)は、世界初のフランチャイズビジネスモデルの一つとして、1960年代にはすでにイギリスやメキシコ、ジャマイカなど海外への展開を始めていました。その後の数十年間で、所有企業の変遷を経て、ペプシコに売却されるなど、経営面での浮き沈みを経験しながらも、国際市場での地歩を固めてきました。1997年にはペプシコから分離独立し、トライコン・グローバル・レストランズとして新たなスタートを切り、その後ヤム・ブランズに社名を変更しています。ヤム・ブランズの下では、特にアジアや南アメリカ、アフリカでの成長を続け、2015年には全世界に約2万店舗を展開しているまでに成長しました 

 創業者のハーランド・サンダース氏は、1930年代にケンタッキー州でガソリンスタンドを経営していた際に、隣接するカフェでフライドチキンを提供し始めました。これがとても好評で、彼のフライドチキンは「11種のハーブとスパイス」を使った特別なレシピで知られるようになります。1955年、高速道路の移転に伴い客足が遠のいたため、サンダース氏はレストランを手放し、フライドチキンのレシピをアメリカのレストランに販売することにしました。この決断が、世界中に広がるKFCフランチャイズの礎を築くことになったのです。


ブラジルでの歴史


 KFCは、ペプシコ社を通じて60年代にブラジルに進出し、サンパウロとリオデジャネイロにいくつかの店舗を展開しました。それなりの成功を収めたものの、その後の10年の終わりには全店舗を閉鎖しました。さらに、70年代にもう一度失敗した進出がありました。

 現在、KFCはリオデジャネイロ州に10のレストランを構えています。2009年には、リオデジャネイロ市のアベニーダ・プレジデンテ・ヴァルガスに、現代的な設備を備え、地元の味に合わせたチキン・パルメジャーノ・サンドイッチを提供するレストランをオープンしました。同年、リオではイパネマ、チジューカ、ノルテ・ショッピングに3店舗を新たに開店しました。そして2011年、ボタフォゴ地区とカンポス・ドス・ゴイタカゼスのショッピング・ブールバードに店舗を開設しました。リオデジャネイロで最後にオープンしたのは、2017年のパーク・ショッピング・カンポ・グランデでした。

 一方、サンパウロ州では18のレストランがあり、ショッピング・ウニオン・デ・オザスコに最初のフランチャイズ店をオープンしました。2013年には、オザスコ・プラザ・ショッピングセンターに最初の自社店を開店しました。その後も首都圏での展開を続け、サンカエターノ・ド・スルのパークショッピング・サンカエターノ、サント・アンドレのショッピングABC、バルエリのパルケ・ショッピング・バルエリとショッピング・タンボレ、カラピクイバのプラザ・ショッピング・カラピクイバなどに店舗をオープンしました。サンパウロ市内では、モオカ・プラザ・ショッピング、ショッピング・メトロ・サンタ・クルス、ショッピング・エルドラド、ショッピング・メトロ・トゥクルヴィ、ショッピング・アリカンドゥバ、ショッピング・メトロ・タトゥアペ、センター3、センター・ノルテ、インテルラゴスなどに店舗があります。2016年には、カンピーナスのパルケ・ショッピング・ドン・ペドロとショッピング・イグアテミ、ピラシカバのショッピング・ピラシカバに新たにオープンしました。

 ミナスジェライス州では、ベロオリゾンテに5つのレストランがあり、ブールバール・ショッピング、ダイアモンド・モール、ミナス・ショッピング、ショッピング・シダージ、ショッピング・エスタソンに店舗を構えています。また、コンタジェンには、イタウ・パワー・ショッピングとショッピング・コンタジェンに2店舗、ベチンにはショッピング・パルタージュに1店舗

 KFCは、ペプシコ社を通じて1960年代にブラジルへ進出し、サンパウロとリオデジャネイロに複数の店舗を展開しましたが、その後閉店しました。1970年代にも再進出を試みましたが、これも成功しなかったようです。

 現在、リオデジャネイロ州にはKFCの10店舗があり、2009年にはリオデジャネイロ市のアベニーダ・プレジデンテ・ヴァルガスに新しい店舗を開設しました。この店舗は、地元の味覚に合わせたチキン・パルメジャーノ・サンドイッチを提供するなど、現代的な設備と地元色を取り入れています。その後、イパネマ、チジューカ、ノルテ・ショッピングにも新店舗がオープンし、2011年にはボタフォゴとカンポス・ドス・ゴイタカゼスにも店舗が開設されました。リオデジャネイロで最新の店舗は、2017年にパーク・ショッピング・カンポ・グランデにオープンしました。

サンパウロ州では、現在18店舗があり、ショッピング・ウニオン・デ・オザスコに最初のフランチャイズ店がオープンしました。2013年にはオザスコ・プラザ・ショッピングセンターに最初の自社店が開設され、その後もサンカエターノ・ド・スル、サント・アンドレ、バルエリ、カラピクイバなどに店舗が拡大しています。サンパウロ市内では、モオカ・プラザ・ショッピングをはじめとする多数のショッピングセンターに店舗があります。2016年には、カンピーナスとピラシカバにも新店舗がオープンしました。

ミナスジェライス州では、ベロオリゾンテに5店舗、コンタジェンに2店舗、ベチンに1店舗があります。

また、2017年にはノルデステ地域にも進出し、サルヴァドールとフォルタレザに新店舗を開設しました。2019年には、パラナ州のクリチバにも店舗がオープンしました。



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2024/02/09

「生まれた順に死んでいく有り難さ」 つり あきこ東本願寺の「同朋新聞」の一部をブラジル・ポルトガル語に翻訳しました。


 テクノロジーの進化が目まぐるしい現代において、仏教の教えを含む多様な文献の翻訳精度が飛躍的に向上していることを実感しています。固有名詞のような特定の項目については微調整が必要な場合もありますが、大部分のテキストは、後から妻のファビアに確認してもらっても、修正箇所がほとんど見当たらないほどです。また、一度修正を加えると、同じ誤りを繰り返さない学習能力にも驚かされます。

 この技術の恩恵により、日本の仏教法話などの文化的財産をブラジルの人々に紹介することが格段に容易になり、これは非常にありがたい進展です。

 東本願寺がネットで新聞を閲覧できるようにしてくれるようになったので、遠くブラジルからも読めるのもありがたいことです。


同朋新聞は誰でもネットからアクセスできます。

https://www.higashihonganji.or.jp/doboshimbun/



生まれた順に死んでいく有り難さ 

釣 章子 (つり あきこ)

「とんちの一休さん」でおなじみ「一休宗純禅師(いっきゅうそうじゅんぜんじ)」。ある日、一休さんは「何かめでたい言葉を書いてほしい」とお金持ちの商人に頼まれます。そして「親死 子死 孫死」と書きました。

それを見た商人はカンカンに怒りますが、一休さんは落ち着いて、こう返します。「それでは、あなたは『孫死 子死  親死』の方がめでたいのですか。『親が死に、子が死に、孫が死ぬ』、人にとって生まれた順番に死を迎えることができる、これほどめでたいことがあるでしょうか?」と。


 今から三十五年前のとある日の夜、当時小学校三年生の私は、一年生の弟と家族で近所のご門徒さんが作ってくださったカレーを食べておりました。そこに一本の電話が入り、母が入院していた産婦人科へ向かい、新しく誕生した小さな命と対面します。私たち姉弟は、もう一人の弟が産まれたことがとてもうれしくて、目の前の小さな命をずっと見つめていました。

 次弟の誕生により、私と長弟に「人を思いやる気持ち」が芽生えます。そして次弟の成長を見守りながら姉弟喧嘩もせず、仲良くすくすくと成長していきました。

 十数年後、長弟は母親の実家のお寺の住職に就任。次弟が自坊の大泉寺の跡を継ぐことになりました。私はというと、幼い時からずっとお寺のことは「他人事」。美容に興味があったので、大学卒業後は某化粧品会社に就職しました。その後サラリーマンの夫と結婚し、二人の娘にも恵まれ、仕事に子育てに充実した日々を過ごしておりました。

 

 今から十二年前に母が急死。当時八十歳だった祖母は「自分の娘の死」を受け入れることができず、通夜葬儀にも参列することができませんでした。そしてそのショックからか認知症がどんどん進行し、施設に入所することに。

母親の急死により、私は今まで「他人事」だったお寺に初めて関わることになりました。幼い子どもを育てながらフルタイムで仕事、そこにお寺の手伝いが加わり、身体も心も休まらず精神的にどんどん追い詰められていきました。

それから六年の月日が流れ、娘たちも成長。長女も小学校に入学し、生活も落ち着き始めた頃に、今度は次弟が急死。私と長弟にとって心の拠り所となる存在だった次弟(じてい)が亡くなり、言葉には言い表せないほどの深い悲しみに苛まれます。長弟(ちょうてい)と顔を合わせるたびにやり場のない怒りをぶつけ合うこともあり、互いに傷つけ合う関係になってしまいます。「強い絆」で結ばれていると倍じていた想いは、いとも簡単に脆くも崩れてしまったのです。


 既に母の実家のお寺の住職をしている長弟に今更戻ってきてもらう訳にもいかず、私は跡を継ぐことを決断しました。今までの生活を全て捨てて家族で大泉寺に移り住み、金沢真宗学院に入学。学生をしながら子育て、仏事に携わる生活が始まります。

 たくさんのご門徒さんと関わる中で知ったのは、自分より先にお子さんを亡くされるなど「受け入れがたい死」を経験されている方の多さでした。何で自分ばかりこのような目に遭わないといけないのか・・・・。当時はそんな思いにとらわれておりましたが、さまざまな出遇いをとおして、人の数だけ悲しみは存在し、皆それぞれ多くのことを抱えながら一生懸命生きておられるということを思い知りました。

認知症の祖母は今でも健在です。冒頭の一休さんの言葉に倣えば、「子死 孫死 親健在」ということになります。私は当たり前のように娘たちより先に命を終えるものと思っています。生まれた順番に死んでいくということだけが、幸せとは限らないのかもしれませんが、「親が死に、子が死に、孫が死ぬ」、この「生まれた順番に死んでいく」

という縁は、本当に一休さんの言葉通り「有る」こと「難き」、「ありがたいこと」なのだと、私としては思わざるを得ないのです。


浄土にてかならずかならずまち

まいらせそうろうべし


(「末燈鈔」「真宗聖典』六〇七頁)


 これは、親鸞聖人が最晩年に一人の門弟(もんてい)に書かれたご消息の末文で、現在の私を支えている言葉の一つです。いのちある限り別れは避けることのできないもの。しかし、親鸞聖人はお浄土といういのちの出遇い直しが果たせる場があると言い切られます。お念仏を申すということが既に、母や弟と出遇い直すことであり、私を念仏の場に導いてくれている大切な諸仏のはたらきなのでしょう。

 自分が思い描いていた人生とは全く違う人生を歩むこととなり、苦悩する日々でしたが、たくさんの方々に支えられ、自分自身の姿を見つめ直しながら、少しずつ前を向いて歩みを始めています。先に亡くなられたすべての方々は、お念仏となって生き続けている、このことを拠り所として、ご門徒や家族とともに、日々の聞法生活を大切に過ごしていきたいと思っております。






Nascemos e morremos na ordem natural, uma bênção inestimável.


Akiko Tsuri 



Conhecido pela sua sagacidade no "Ikkyu-san", o Mestre Zen Ikkyu Sojun foi um dia solicitado por um rico comerciante a escrever palavras auspiciosas. Ikkyu escreveu: "A morte do pai, a morte do filho, a morte do neto". O comerciante, furioso ao ver isso, foi acalmado por Ikkyu, que disse: "Preferiria então a ordem 'A morte do neto, a morte do filho, a morte do pai'? Há algo mais auspicioso do que a ordem natural da vida, onde pais morrem antes dos filhos, e assim por diante?"


Certa noite, trinta e cinco anos atrás, eu, então no terceiro ano do ensino fundamental, estava jantando um curry feito por um devoto vizinho com meu irmão, que estava no primeiro ano. Recebemos uma ligação, e minha mãe, que estava no hospital, nos apresentou a um novo membro da família. A chegada de mais um irmão encheu nossos corações de alegria, e ficamos encantados com a nova vida diante de nós.


A chegada do meu irmão mais novo despertou em mim e no meu irmão mais velho um sentimento de compaixão. Crescemos sem brigas, cuidando um do outro. Anos depois, meu irmão mais velho se tornou o sacerdote do templo da família de nossa mãe, e meu irmão mais novo foi destinado a suceder o templo da nossa própria família. Quanto a mim, sempre vi o templo como algo distante, tendo interesse em beleza, segui para trabalhar em uma empresa de cosméticos após a graduação. Casei-me com um funcionário de escritório, tivemos duas filhas, e vivi dias plenos entre o trabalho e a criação dos filhos.


Doze anos atrás, minha mãe faleceu subitamente. Minha avó, então com oitenta anos, não conseguiu aceitar a morte de sua filha e não pôde comparecer ao velório nem ao funeral. O choque agravou sua demência, levando-a a ser internada em uma instituição. A morte súbita de minha mãe me fez envolver com o templo pela primeira vez, um mundo que até então considerava alheio. Conciliar o trabalho em tempo integral com a criação de filhos pequenos e ajudar no templo me sobrecarregou física e mentalmente.


Seis anos se passaram, minhas filhas cresceram, e quando a vida começava a se estabilizar, meu irmão mais novo faleceu subitamente. A perda de alguém que era um pilar emocional para mim e meu irmão mais velho nos trouxe uma dor indescritível. Encontros com meu irmão mais velho frequentemente terminavam em discussões cheias de raiva, prejudicando nossa relação. Os fortes laços que pensávamos ter se mostraram surpreendentemente frágeis.


Com meu irmão mais velho já estabelecido como sacerdote no templo da família de nossa mãe, assumi a responsabilidade de suceder o nosso templo. Abandonei minha vida anterior e me mudei com minha família para o templo, ingressando no Instituto Shinshu de Kanazawa. Comecei a viver uma vida dedicada ao budismo, equilibrando estudos, criação dos filhos e atividades religiosas.


Interagindo com muitos fiéis, percebi quantos enfrentavam a dor de perder seus filhos antes de si mesmos, uma morte difícil de aceitar. "Por que só eu tenho que passar por isso?" Eu costumava me perguntar. No entanto, através desses encontros, compreendi que cada pessoa carrega sua própria tristeza e luta para viver da melhor maneira possível.


Minha avó com demência ainda vive. Seguindo as palavras de Ikkyu, "A morte do filho, a morte do neto, a avó ainda vivo" se aplicaria aqui. Eu sempre assumi que morreria antes das minhas filhas. Embora a ordem natural da morte não garanta felicidade, "a morte do pai, a morte do filho, a morte do neto" - morrer na ordem em que se nasceu - é, como Ikkyu disse, algo raro e precioso.


"Certamente, certamente, esperarei por você na Terra Pura."


Estas são as palavras finais escritas por Shinran Shonin a um discípulo em seus últimos anos, palavras que me sustentam agora. A separação é inevitável enquanto houver vida. No entanto, Shinran Shonin afirmou categoricamente que a Terra Pura é um lugar onde podemos reencontrar aqueles que perdemos. Recitar o Nembutsu já é um reencontro com minha mãe e meu irmão, guiado pelas benevolentes ações dos Budas.


Embora minha vida tenha tomado um rumo completamente diferente do que imaginei, apoiada por muitas pessoas e refletindo sobre mim mesma, comecei a avançar lentamente. Todos aqueles que se foram continuam vivos no Nembutsu, e com isso como meu suporte, valorizo a vida de ouvir os ensinamentos com a comunidade e minha família todos os dias.



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2024/02/06

(動画あり)ニューヨークで活動中の浄⼟真宗僧侶、 名倉 幹先生がブラジルにおいでになり、静坐法と法話が各地で行われました。(動画集と感想)


最後に記念撮影

(動画あり)ニューヨークで活動中の浄土真宗僧侶、名倉幹先生がブラジルを訪れ、静坐法と法話が各地で行われました。


 3回の法座は非常に意義深く、雰囲気も素晴らしかったです。宗教の教えの場作りについて大きな示唆をいただきました。ヘナト先生と名倉先生、本当にありがとうございました。妻のファビアも多くの人々に声をかけ、多くの準備をしてくれました。それがこの法座が素晴らしい集まりになった理由でもあります。感謝しています!

できたら毎年名倉先生とヘナト先生に来ていただきたい。


以下まとめになります。解説の資料のリンクはこちら。

https://www.brasilsanpo.com/2024/02/blog-post.html



2024年2月2日(金曜日)14:00時
バウル南米本願寺にて正信偈のお勤めの後、法話と静座法について解説と実践

参加者と一緒に記念撮影





砲座の後は座談会、熱心に質問するディエゴさん








2024年2月3日(土曜日)8:00時
マリリア真宗本願寺にて正信偈のお勤めの後、法話と静座法について解説と実践





先生が丁寧に一人一人指導してくださいます。

椅子に座ってでもできる静座法



説明と実践で徐々に集中する参加者

正しい姿勢は意外とできないものです





2024年2月3日(土曜日)14:00時
マリリア真宗本願寺にて正信偈のお勤めの後、法話と静座法について解説と実践






最後に記念撮影

南無阿弥陀仏

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