今回は以下の対談を紹介します。私の兄が真宗大谷派の出している月刊誌「同朋」に登場しました。広島生まれで私の実家の法正寺も8月6日の原爆で全焼してしまいました。ひいおばあちゃんもその時に亡くなっています。
私が幼い頃はまだ街中にケロイドを負ったお年寄りが歩いておられました。母に理由を聞いたり、その後学校で原爆の悲惨さを習ったりしてその理由を知りました。
このビナードさんと兄の対談が素晴らしいので文字起こし機能を使って掲載させていただきました。
ぜひご一読願います。
核のない世界へ
対談
真宗大谷派僧侶
泉原寛康
詩人
アーサー·ビナード
体験者でなくても、国籍が違っても
自分なりの言葉で伝えていこう。
核のない世界を目指していくために、私たち一人ひとりにできることとは?
米国に生まれ、現在は広島に住んで、核や戦争について言葉を紡ぎ続けるビナードさんと、
広島のお寺で住職をしながら、非核非戦の願いを発信する泉原さんとの対談です。
大きい嘘を見抜くきっかけを
広島が与えてくれた
泉原
今日はまず、アメリカで生まれ育ったビナードさんが、なぜ現在は広島にお住まいになり、原爆のことを題材にした絵本などを書かれるようになったか、その歩みをお聞きしたいと思います。
ビナード
もともと、ニューヨーク州の大学で英米文学を学んでいたんですが、4年生になって卒業論文を書いていた時、ひょんなことで、とんでもなくぶっ飛んだ言語に出会ったんですね。文字は漢字とひらがな、カタカナが混ざりあい、擬音語や擬態語などが渦巻いて、その多様性ときたら、まるで砂漠から熱帯雨林に放り込まれたような気がして……。
そこから道を踏み外してしまったんですね(笑)。大学を卒業した1990年に日本へ来た時は、純粋に日本語に対する言語欲と興味があふれていただけで、広島のこと、原爆のことはいっさい意識していませんでした。はじめは、東京の池袋でアルバイトをしながら日本語学校で学んでいたんですが、その頃の商店街の大檀那たち、お母さんのお母さんたちは空襲を知っている世代だったんですね。八百屋のおじいさん、豆腐屋おばあさんと徐々に親しくなり、家に上がってお茶またはお酒をいっしょに飲んでいると、その体験の話が出てくるのです。日々の暮らしでお世話になっている人たちが、たったの4年前には焼夷弾で焼け出されたり、炎を避けて川に飛び込んだり、池袋から板橋の方まで裸足で逃げたりしているわけですよ。自分が住むここが、自分の母国機の爆撃に焼かれた。アメリカで僕は広島、長崎への爆撃はちょっとだけ聞いていたけど、東京大空襲のことは全く知らなかったんですよ。一夜にして10万人が亡くなったことを、何も教わっていなかった。そして、広島、長崎のことだって、本当は何も知らなかったんです。初めて広島に来たのは25年前、1996年でした。平和記念資料館で、知らなかった被爆を実際に体験した方々の話を聞いて、世界を捉える立ち位置が変わりました。「原爆は必要だった」、「原爆投下は正しかっのた」、「原爆のおかげで戦争が早く終わった」などアメリカの中学や高校で教わってきた話が、ゆらいだんですね。これまで自分が疑わなかった歴史の物語が、実はペテンだった。
原爆投下と終戦はそんな関係じゃなかった。そして、原子力の平和利用なんて言われた原発も、作り話の上に建てられている。広島は、そういうフィクションを見抜くきっかけを与えてくれたんですね。
ていねいに聞きとった話を語り直し、共有する
泉原
今日の対談のテーマは「核のない世界へ」ということですが、"核のない世界"という理想郷が、今の自分たちが置かれた現実から離れたところにぽっかり浮かんでいるわけじゃないですよね。これは、「お浄土」が私たちの生活から離れてどこかに
ある世界ではないのと同じだと思うのです。
お釈迦さまは、「対機説法」といって、話す相手一人ひとりの問いに合わせて、仏法をさまざまな形でお説きになられたそうです。それと同じように、ビナードさんがどうして広島と出会われたのかをお聞きすることが、核のない世界を願うというテーマを考える糸口になるのではないかと思い、まずそのことをお聞きしたわけです。
ビナード
語弊があるが、核のない世界を目指すといった大きなスローガンは、あまり重要じゃないと思います。じゃあ何が重要なのか。僕は人生の前半、広島について勘違いさせられていたのだから、大事なのはインチキの定説を真に受けずに、実体を掘り下げていくことです。そのためには、被爆させられた方一人ひとりの体験を具体的に聞いていく。そして、その方々の体験を自分の視点から捉え直して、また語り直すということです。視点が変われば、体験者には見えていなかったことがあぶり出される可能性がありますから。そうやって聞いた話を、みんなと共有することでもしかして未来を生き延びることにつながるかもしれない。
泉原
ビナードさんのお仕事は、戦争体験者の話をじっくり聞き取った『知らなかった、ぼくらの戦争』(小学館)など、ていねいな聞き書きにもとづくものが多いですね。さらに、被爆者の遺品たちが語り部になって自分の体験や思いを語り出す『さがしています』(童心社)や、原爆ドームが自分の歴史を語りだす『ドームがたり』(玉川大学出版部)にしても、広島で多くの人の言葉に耳を傾けてきた経験がもとになっているんだろうなと感じます。
ビナード
僕が広島に住みついたのは11年前。いまおっしゃった『さがしています』をちょうどつくっている最中でした。あの本は、ときおりよそから広島に通ってきてつくれるようなものじゃなかったので、いよいよ住みつくしかないな、と思って。
泉原
『さがしています』は、平和記念資料館が所蔵していた2万1千点の遺品の中から、14点の遺品を選んで、それぞれの背景にある物語を多くの人に教えてもらって書かれたのでしょう。すごく手間がかかっている本だと思います。
ビナード
「手間」といっしょに、たくさんの「力添え」も必要でした。登場する遺品のひとつに横谷菊美さんという女性が使っていた鉄瓶が出てくるのですが、その方が住んでいたところに建てられたマンションの一室を借りたんです。
泉原
本の最後に書かれていますが、横谷菊美さんはお子さんと二人で朝食をとっている時に被爆して亡くなられたそうですね。焼け焦げた遺体の下からお子さんの遺体が出てきて、おそらく被爆の瞬間に子どもをかばおうとされたのだろう、と。
ビナード
広島で教わった人びとの体験が、いまここにいる必然性だと思います。もちろん自分の先祖や親や家系も大事だけれど、もっと大きいのは、物ごとの本質をつかめるように導いてくれた師匠ですね。例えば、シェークスピア、近松門左衛門、小熊秀雄、中原中也などは、僕にとって文学的に重要な存在で、広島とのつながりもその類なんです。
泉原
今日、ビナードさんに広島市中区宝町にある東本願寺広島別院に来ていただいて対談しています。広島別院は、元は爆心地に近い大手町にあったのですが、原爆で全焼し、戦後間もなく現在地に再建されました。さらに2014年、老朽化のため、別院と教区同朋会館広島を併設する形で再建されました。いまは、真宗大谷派の山陽教区の中で、非核非戦の願いを発信していく拠点という役割も担っています。被爆された洋画家の増田勉さんが描この別院の本堂の壁には、広島でいた絵が掛けられています
本堂の壁に掛けられた絵が物語る原爆への怒り
ビナードさんは、丸木俊(まるき とし)さんと丸木位里さんの「原爆の図」を素材にして、『ちっちゃいこえ』(童心社)という紙芝居もつくっておられますね。増田さんの絵は丸木さんらの絵と違って抽象画ですから、一見すると何が描かれているのかわかりませんが、道端や河原に落ちていたものを貼りつけるという技法も使って、原爆への激しい怒りが伝わってくるような絵です。終戦の年、増田さんは29歳で、当時の小中学校にあたる国民学校の教員でした。8月6日、爆心地から1·6キロの比治山橋の近くで、生徒たちと建物疎開作業中に被爆され、多くの子どもたちを亡くされたそうです。増田さんは私の寺のご門徒でしたから、生前にお会いしたことがあります。その時に、「自分は子どもたちをだましてきた」とおっしゃっていました。その罪をずっと背負って生き、その罪の意識から、核のない世界を願い、生涯原爆をテーマにした絵を描き続けられました。
ビナード
丸木俊さんと位里さんの「原爆の図」は、分類すれば具象画になるでしょうけど、よく見ると部分的に抽象画なんですね。たぶん必然的にそうなるんですよ。被爆の現場は、悠長なリアリズムで表現できるものじゃない。そこで強烈に影響を引き起こしているのは、目に見えない放射線と放射性物質でしょう。その脅威と悪影響を絵画で表現しようとすると、どうしても増田さんや丸木さんのような激しい抽象表現にならざるを得ないのだと思います。丸木俊さんはデッサン力抜群の洋画家で、人物をていねいにリアルに描いていきます。一方、位里さんは日本画家で、墨の世界に生きていますから、俊さんが描いた具象画の上に墨をぶっかけるような勢いで筆を加えていく。それの繰り返しの中から、目に見えない放射能の破壊力が僕らのか弱い肉体を襲った時に起きるせめぎ合いの比喩的表現が出てくるんですね。被爆者の体験を未来に語り継いでいくために
泉原
僕はたまたま縁あって広島で生まれ、広島市内の寺の住職をしています。ただ、両親とも県外から入寺したので被爆者ではありません。そして、僕は被爆二世の世代ですが、僕自身はそうじゃないんですね。ですから、アメリカから来たビナードさんほどじゃありませんが、僕もまた原爆に対してちょっと距離を感じるのです。でもその距離を少し縮めてくれたのは「月参り」での経験でした。僕が20代で大学を卒業して寺へ帰った頃は、仏間に軍服姿の遺影が飾られていましたし、過去帳はその多くが8月6日が開かれて、複数の法名が記載されていました。
ビナード
同じ日に原爆で亡くなった方がそれほど多かったわけですね。
泉原
ええ。でも、故人のことやご悲しみの日はめぐり語は連上 人は代り 世相は変っても「あの日、のことを忘れてはならな、、ノーモマ·ヒロシマを叫にながら
真宗大谷派広島別院の本堂の壁に掛けられた増田勉さんの絵
本人の体験とかなかなか聞けなかったし、門徒さんも話されませんでした。そんな中、何年もたって、ふと話してくださることがあるわけです。ある時、聞くことを許されたのかなと思います。「話してもええか」と思ってくださったんですかね。そうすると、いつもニコニコしている穏やかなおばあちゃんが、壮絶な体験をされていることがわかったりするんです。そんな体験をされた人たちは、黙々と普段の生活をしておられる。その姿に生きることの厳粛さを見させていただき、僕も何かあってもご門徒のように淡々と日暮らしすればいいんだと、力をいただいた思いがしました。日常の生活の中で、時が来れば語りもするし、語りたくなかったら語らない時もある。そうやって地道に伝わってきたし、耳をすませてきたんだなあと。
ビナード 暮らしに根ざした話が力強いですよ。「核のない世界へ」とスローガンを大声で繰り返したって実現しません。
泉原
だから、ビナードさんのように一人ひとりの体験をていねいに聞き、それを人に伝えていくしかないと思うんですね。ただ、月日がたつうちに被爆体験のある方が少なくなり、原爆の記憶が薄れていく中で、体験をいかに語り継ぐかがいま課題になっています。例えば、僕の従兄弟に「被爆体験伝承者」の会で活動している僧侶がいます。きっかけは入寺した先の住職がいわゆる原爆孤児で、さまざまなご苦労をされてこられた。終戦間際、学童疎開しており、被爆は免れましたが、家族を失った。そうやって、被爆体験のある語り部から話を聞き取り、その方に代わってお伝えする「伝承者」が少しずつ増えています。自分が体験していないことを語ることはできないのか?ビナード 記憶の風化というのは、いまに始まったことじゃありません。例えば『原爆詩集』を書いた詩人のとうげさんきち峠三吉は、1940年代の終わりごろから同人誌をつくって出版していたんですが、その雑誌の特集号にはすでに「原爆の記憶は消える」、「語り継ぐための工夫が必要」、「マンネリ化している」などと書いてあるんですね。まだ10年もたっていないのに警鐘を鳴らしている。ということは、最初から問題はあるんです。どう語り継ぐのか。直接の被爆体験がない人だけになってしまった場合、それが難しいという。じゃあ体験者がいらっしゃれば伝わるかというと、必ずしもそうじゃない。そう考えると、自分がどういう課題を背負っているかが少し見えてくるんですよ。僕は体験者じゃないし、国籍も違う。だけど僕にできる語りはある、と。ある時、秋田県で比較的若いご住職の集まりに呼ばれ、話をする機会がありました。その参加者の多くは『知らなかった、ぼくらの戦争』という本を読んでくださっていて、戦争体験をどう伝えるかという話題になりました。すると、"お寺で門徒さんから戦争の話を聞くことはあるが、自分は体験者じゃないから語ることができない"と皆さん口々におっ
しゃるんですね。僕はそれを聞いてだんだん不思議になってきました。やがて僕がしゃべる番が来た時に、叱られる覚悟で訊いてみたんですよ。「ところで今日お集りの皆さんの中で、釈迦本尼に直接お会いになった方はどれぐらいいらっしゃるんですか?」って。すると、答えはゼロでした(笑)。
泉原
そりゃそうですよね(笑)。ビナードでも、皆さんは、2500年ほど前に亡くなった釈迦牟尼の教えと体験を、翻訳の翻訳のそのまた翻訳のようなお経で読み、また聞き
のまた聞きのまた聞きのまた聞きみたいなものを聞き、それなのにいつも自信ありげにお説教されてるじゃないですか。だから、体験していないから語れないなんてことはないんですよ。ただし、「これは絶対に自分が語り継がなきゃ駄目だ」と思って、必死になって掘り下げて語れるかどうかがポイントですけど。
泉原
面白いお話ですね。シャカが「釈尊」になられたのをどこに見るかという問題に通じていると思います。シャカはそれまでの苦行を離れられ、菩提樹のもと瞑想されさとりを得たと、その時を、釈尊の誕生とされます。しかしそうじゃなくて、シャカが、目覚められた内容を言葉にして人語った時こそが「釈尊」の誕生なんだと僕は思います。つまり、大切なのはさとりを得ることでなく、人に語りかけ伝えること、まさに「さとりをひらく」ことだと思うんですよ。これまで聞いてきた言葉を自分の言葉で語り伝える責任
泉原
もうひとつ、釈尊の生涯で大切な点は、亡くなられた時だと思います。別れの時、仏弟子は「これまで何を聞いてきたのか?」「何に出会ったのか?」と問われてくる。もう明日から釈尊の説法が聞けないとなったら…。
ビナード
自分が釈尊の代わりに語らなきゃだめですね。
泉原
そうなんですよ。そこが伝承ということの大切なポイントだと思うのです。
ビナード
その時は、これからは自分が教えを背負っていくという覚悟、ある意味では釈尊の上を行くというぐらいの覚悟が必要でしょう。
泉原
上を行くというか、自分を通して語るということです。つまり、これまでは釈尊の言葉に頼ってきたけれど、これからは自分の言葉で、次世代の人々に向けて語っていかなければ、という責任が出てくるんだと思います。だから、被爆体験者がだんだん少なくなり、いつかおられなくなる日が来る。そうすると、これまで語ることに口を閉ざしていた方が、「伝えないと」と思いたち、語りだすこともあったりします。
ビナード
もうひとつ大事な要素は覚悟だと思います。代わって話す覚悟ですね。死ぬ覚悟で語られた話は伝わります。そもそも死ぬ覚悟がなくて、核のない世界をつくるって、無理でしょう。核は、詐欺師たちの経済と権力の道具です。命がけでその
道具を無力にできます。
泉原
命がけですか…。確かに戦争中には命がけで自分の信念を貫いて亡くなった方もいましたし、そういう人の生き様を伝え、聞くことも大切なことだと思います。ただ、ビナードさんのように強くてマッチョな人なら(笑)、それもできるでしょうが、
その勇気がなくて力のある人に妥協してしまう人もいますね。そういう人をどうするんだ、ということがテーマだと僕は思っています。
ビナード
僕はマッチョじゃないですよ(笑)。何も正面衝突するだけが恰好いいと思ってるわけじゃない。例えば戦時中、落語家の団体に対して、このご時世に風紀を乱すような噺を高座でやっちゃいけないという自粛要請があったんですね。そこで噺家さんたちはその要請に従って、くるわばなし廓噺のような風俗を扱った落語のネタを53選び、浅草のお寺に「噺塚(はなしづか)」を建てて葬ったのです。当然その塚には、葬った演題が刻まれていたので、逆にみんなはその噺を聞きたくなり、リクエストががんがん来たとか(笑)。そんなふうに、弾圧を逆手に取るユーモアが大切です。反核運動の欠陥は、ユーモアを欠いていることですよ。
「願いをかけられた身」
であることを自覚する
泉原
井上ひさしさんの『父と暮せば』も、伝えることにユーモアを大切にされていますね。今年の真宗教団連合のカレンダーに、「己れに願いはなくとも、願いをかけられた身だ」という藤元正樹(ふじもと まさき)さんという僧侶が遺した言葉が載っています。この「願いをかけられた身」という言葉は大切だなと思うんですよ。以前、東京大空襲を描いたドキュメンタリーで、空襲を生き延びたおばあさんの話に感銘を受けました。その方は空襲の時に看護師をしていて、患者さんを連れて避難をされた。その時、その方は運よく生き延びたけれども、たくさんの同僚が逃げ遅れて亡くなったそうです。そして、80歳を過ぎ、「そろそろお迎えが来る頃だ」となった時、あの世へ行って同僚に会えるのは楽しみだが、心配事が二つあると言うんですね。ひとつは、同僚はみんな若くして亡くなったから若い頃のままの姿でいたから、わかってもらえないんじゃないかと。
自分は皺くちゃのばあさんになってしまった。
ビナード
なるほど。
泉原
そしてもうひとつ、これが凄いなと思ったんですが、「同僚たちに、自分はちゃんと生きてきたと報告できるだろうか」と言われるんですね。同僚の多くが死んで、自分はたまたま生き残ることができた。その与えられた命をきちんと生きてきたと同僚たちに報告できるだろうか、と。僕はそこに「願いをかけられた身」の自覚を感じるんですね。弱くて駄目な自分かもしれないが、自分一人の思いで生きているんじゃない。さまざまな願いを担って命を生き切っていくその責任があると。
ビナード
「核のない世界へ」という願いであれば、それをスローガンとしてとなえるのではなくて、自分の体内に宿して、汗といっしょに出して、喜怒哀楽とつなげて、願いが根づく立ち位置に立つ。たくさんの人が、それぞれしっかり宿して揺るぎない覚悟で立てば、可能性は出てきます。
泉原
「核のない世界」をユートピアのようなものと考えると無理が生じると思います。仏教では僧伽という集まりを大事にしますが、これは例えば「核のない世界」を願う人だけではなく、それを信じられない人もためらう者もいる。いろんな考えをもった人が話し合える集いだと思います。考えが違っていても、まことに向かって共に歩む。そして答えを簡単に出すのではなく、問うことを止めない。そんな世界を開いていければと思います。
泉原寛康 (いずはらひろやす)
1964年広島市生まれ。大谷大学卒業。現在、真宗大谷派山陽教区法正寺住職。山陽教区教区会議長。2014年に再建された広島別院明信院の再建委員を務めたのち、現在は同別院責任役員を務めている。
アーサー·ビナード
Arthur Binard
1967年、米国ミシガン州生まれ。コルゲート大
学で英米文学を学び、卒業と同時に来日、日本語
での詩作を始める。詩人、翻訳家、エッセイスト、
ラジオパーソナリティとして幅広く活躍。詩集『釣
り上げては」(思潮社)で中原中也賞、『日本語ぽこ
りぽこり」(小学館)で講談社エッセイ賞、『ここが
家だーベン·シャーンの第五福竜丸」(集英社)で
日本絵本賞、詩集『左右の安全」(集英社)で山本
健吉文学賞、『さがしています」(童心社)で講談社
出版文化賞絵本賞、『ドームがたり』(玉川大学出
版部)で日本絵本賞を受賞。他に『知らなかった、
ぼくらの戦争」(小学館)など著書多数。近著は『そ
もそもオリンピック』(玉川大学出版部)。
さがして
『さがしています』
います
作/アーサー·ビナード
写真/岡倉禎志
発行/童心社
定価/1,430円(税込)
『ドームがたり(未来への記憶』
作/アーサー·ビナード
絵/スズキコージ
発行/玉川大学出版部
定価/1,760円(税込)
『知らなかった、
ぼくらの戦争』
編著/アーサー·ビナード
発行/小学館
定価/1,650円(税込)
東本願寺 月間 同朋 2021年8月号より
「ブラジル・シュウちゃんねる」
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