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最近はクラウドファンディングも浸透してきましたが、ネット乞食とかいろいろ出てきました。乞食とはもともとは「こつじき」といい僧侶のことです。ウィキペディアに載っていますので是非ご覧ください。 動画でも話していますがブラジルにも路上生活者がたくさんいて、この私も道端で小銭を乞われたり、お寺にいても最低一日一回は来ます。
ブラジルに来て13年になりますが多くの人がアドバイスとして一度あげたら目をつけられて何度も来るし、乞食もコミュニティがあるのであそこに行くともらえるよ!という噂が広がり、際限なく人が来るのでやめたほうがいいという人のほうが多いです。
しかし、あげなかったら恨まれるかもしれないし目をつけられるかもしれません。ブラジルではよくフリーの駐車場に立っていて、車を見ておいてあげるからお金頂戴と言われる場所ああります。そのときにあげないと車をキヅつけられるかもしれないという恐れがあり、しょうがなしに上げる場合もあります。でも時と場合によってはあげない場合もあります。
ではいろいろな乞食にあげるかあげないか、どうやって決めているのでしょうか? それはちょっとしたことです。その時お金が有るか無いか、その時の私の気持ちはどうか? あと私が途中で気がついた大きなテーマはお金を乞う相手がどういう態度か? この最後が私の大きなテーマになってもう久しいです。
私はあるときから必ず小銭を持ち歩くようにしています。第一の条件を潰すためです。となるとあとはその時の私の気持ちと相手の態度でその時施すかどうか左右されることになります。 わたしがある日ハッとしたのは同じ乞食でも相手のちょっとした態度で私の気持ちが大きく左右されていることに気がついた時です。その時「坊主は畳の上の乞食」と日頃から言っていた住職を思い出したのです。それはまだ日本にいた時15年前くらいのことですから、本当はその頃から乞食と坊主というテーマはいつも私の心のどこかで流れています。
今回のブラジル散歩では先日同じ僧侶をしているお西のお坊さん菅尾さんと話している時の事を振り返りながらお話ししています。
僧侶だけでなくおそらくこの世の生き物はみな乞食だと思います。
ではご覧ください!
今週のことば 尾畑文正 戦争の罪責はもともと平和の罪責である 市川白弦 市川白弦師( 1902 ~ 86 年)の著書『仏教者の戦争責任』の冒頭である。悲惨な戦争を踏まえ、師は戦争の罪責は平和時から起きているとして、私たちの過ちは...