今週のことば
尾畑 文正
汝らは、自らを灯明とし、自らをよりどころとし、略法を灯明とし、法をよりどころとし、他をよりどころにせず住するがよい。
大般涅槃経(だいはつ ねはんぎょう)
今日9月1日は101年前に関東大災が起きた日である。大震災の中、朝鮮人を対象に流言蜚語(りゅうげん ひご)が官民から飛び交い、何千もの朝鮮人、その他の人々が虐殺された。
この事件を念頭に上記の釈迦の最後の説法を考えてみたい。
「自らを灯明とし」の自らは仏教が説く相互共存する自らである。それが灯明として自己ファーストの愚かさを知らせる。「法を灯明とし」の法は一切の存在は平等であるとする教えである。それが灯明となり、その法が差別の現実を照らし出す。灯明の原語はインドの古い言葉「ディーパ」。濁流に漂う生き物の州、島をも表す。まさに命のよりどころである。
現実はどうか。灯明でもあり、よりどころでもある相互共存する平等の世界を見失い、自分たちの世界を絶対化して他を貶(おとし)めている。
典型が大震災に乗じて現れた差別の現実である。その歴史が釈迦の遺言に立ち返れと私に呼びかける。
(同朋大名誉教授)
ポルトガル語翻訳
Palavras da Semana
Bunsho Obata
“Vocês devem ser uma lâmpada para si mesmos, devem depender de si mesmos; devem ser uma lâmpada para a Dharma, devem depender da Dharma e não depender dos outros.”
Mahāparinirvāṇa Sūtra (Daihatsu Nehankyō)
Hoje, 1º de setembro, marca o dia em que ocorreu o Grande Terremoto de Kanto, há 101 anos. Em meio a esse grande desastre, rumores maliciosos contra os coreanos se espalharam tanto pelas autoridades quanto pela população, resultando no massacre de milhares de coreanos e outras pessoas.
Gostaria de refletir sobre o último sermão de Buda mencionado acima, tendo em mente esse evento trágico.
O "si mesmos" em "sejam uma lâmpada para si mesmos" refere-se ao “eu” interdependente que o Budismo ensina. Esse "eu" serve como uma lâmpada que nos alerta para a insensatez do egoísmo. A "Dharma" em "sejam uma lâmpada para a Dharma" é o ensinamento de que todas as existências são iguais. Esta "Dharma" ilumina a realidade da discriminação.
A palavra original para "lâmpada" é "dīpa", um termo antigo indiano que também pode significar um banco de areia ou uma ilha onde seres vivos flutuam nas águas turbulentas. Isso é, de fato, um refúgio para a vida.
Qual é a realidade atual? Estamos perdendo de vista o mundo de igualdade interdependente que serve tanto como lâmpada quanto como refúgio, e estamos absolutizando nosso próprio mundo enquanto depreciamos os outros.
O exemplo típico dessa realidade de discriminação é o que emergiu durante o grande terremoto. Essa história me chama de volta às palavras finais de Buda.
(Professor Emérito da Universidade Dōhō)
参考
自燈明 [じとうみょう]
ブッダは入滅の直前に、弟子のアーナンダ(Ananda)に対して
「自己を燈明とせよ。自己を拠り所とせよ。自己のほかに拠り所を求めてはいけない」と告げたという。
パーリ語のdIpaはサンスクリット語dIpa(燈明)あるいはdvIpa(島)に該当するが、そのために漢訳では両方の訳が混在している。
ブッダゴーサの註釈など、インドの伝統的解釈では島とみる方が適当であると考えられている。
(白水社/ルイ・ルヌー著『インドの哲学』四一頁参照)
中村元氏はその訳著『ダンマパダ(真理のことば)』の第二五節で
「思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ」
と訳出し、次のような註をなしている。
島――パーリ注釈文には「非常に深い輪廻の海(saMsArasAgara)のなかに自分のよりどころpatiTThAである真人の境地(arahattaphala)という島をつくれ、すなわちつくることができるように」(vol. I, p.255.)と解している。sAgaraは漢訳仏典ではつねに「海」と訳すが、日本人の理解する「海」の観念を持ち込んではならない。大きな水たまり、湖もsAgaraという。(例えば、Madhyapradesh州のSaugar[←sAgara]は、そこに湖沼があるから名づけられたものである。)昔のインド人は多くは海洋を見たことは無かったであろう。したがってdIpaは島と訳してもよいし、洲と訳したほうが良い場合もある。それは洪水のときに避難処となったので、しばしば帰依する処の意味でつかわれる。(七七頁)
氏はまた『大パリニッバーナ経』の註で、「島」について次のように述べている。
島――attadIpa, サンスクリット本AtmadvIpa, チベット本bdag Nid gliN, 有部本「洲渚」。ブッダゴーサは明らかに島と解している。『大海のうちにおける島のように、自分を島(たより)として確立しておれ。』atta-dipA ti mahAsamuddagataM dIpaM viya attAnaM dIpaM patiTThaM katvA viharatha. 他方dIpa を燈明と解する訳としては、『中阿含経』第三十四巻「世間経」(大正蔵、一巻六四五ページ下)に「当自作燈明」とあり、また『長阿含経』第二巻「遊行経」(大正蔵、一巻一五ページ中)に「自熾然熾然於法」とある。ただし(島)と解すべき言語上の論証については、佐々木現順『阿毘達磨思想研究』五九四~六〇三ページ参照。輪廻はしばしば大海に譬えられ(saMsAra-sAgara)、またニルヴァーナは島に譬えられる。(二三一頁)
このように見ても、やはりdIpaは島もしくは洲と訳すのが正しいようである。
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