2024/08/30

「ブラジルの夕陽に心を奪わるほど:Mercado Confiançaからの絶景」

「ブラジルの夕陽に心を奪われて:Mercado Confiançaからの絶景」





 ブラジルの日常には、ふとした瞬間に心を奪われる美しさが溢れています。そのひとつが、私がよく行くスーパー、Mercado Confiançaの駐車場から見える夕陽です。いつも買い物を終えて車に向かう途中、ふと目にするあの光景には、毎回驚かされます。

特にその日、空はまるで大きな絵画のように美しく、額縁に収まっているかのように四角に切り取られていました。毎日のように見る景色なのに、その夕陽は特別な輝きを放っていて、思わず立ち止まって見入ってしまいました。まるで、世界が静かにその瞬間を祝福しているかのように感じられました。

 普段はiPhoneで撮った写真の方が綺麗に見えたりするんですが、この夕陽だけは違いました。裸眼で見るその光景は、何倍も美しく、目に焼き付けたいと思わせるものでした。写真に収めることも忘れて、ただその場で感じるままに見つめていたんです。

夕陽の光が徐々に沈んでいくと、辺りは静かで、時間が止まったような気さえしました。そんなひとときに、日々の忙しさを忘れ、ただ自然の美しさに身を委ねることができるのは、何とも贅沢なことだと思います。

 ブラジルのこのスーパー、Mercado Confiançaは、地元の人々に愛される場所です。新鮮な食材が並び、人々の笑顔が溢れるこの場所で、こんなに素晴らしい夕陽を見られるなんて、ちょっとした幸運かもしれません。

もしブラジルを訪れることがあれば、この夕陽を自分の目で確かめてみてください。写真では伝わらない、この美しさを、ぜひその目で感じ取ってほしいです。夕陽が沈むその瞬間、心の中に特別な思い出が一つ増えることでしょう。







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2024/08/29

「永遠の絆を紡ぐブラジルの鳥:マリタカと共に生きる寺の風景」

 「永遠の絆を紡ぐブラジルの鳥:マリタカと共に生きる寺の風景」






  
 ブラジルのマリリアにある真宗本願寺の前庭には、今日も変わらず、仲睦まじい鳥たちの声が響き渡っています。その鳥たちは「マリタカ」という一生つがいを解かないとされる種で、彼らは常に一緒に行動し、電線の上で威嚇の鳴き声を上げる姿が印象的です。

毎朝、私が寺に足を踏み入れると、マリタカたちがすぐに目に入ります。彼らはまさに寺の一部であり、彼らの姿を見ると心が和むのです。しかし、この愛らしい鳥たちにも頭を悩ませる点が少なくありません。特に子育ての時期には、彼らの縄張り意識が一層強まり、人間に対しても激しい威嚇を繰り返します。その鳴き声は時には驚くほどの音量で、周囲に響き渡ります。

 彼らはお寺の屋根裏に無断で住みつき、そのまま家族を築いているのですが、これが困ったことに、いろいろな部分を齧り始めてしまいます。特に電線を齧る行為は危険で、停電や漏電のリスクを引き起こしかねません。これについては早急な対策が必要だと分かってはいるものの、今のところは手をつけられずにいます。

そんなマリタカたちを見ていると、その微笑ましい姿に心が温まる一方で、彼らとの付き合い方をどうするべきか、頭を悩ませる日々が続きます。彼らの永遠の絆には学ぶべきところが多くありますが、それと同時に、私たち人間との共存のあり方を見つめ直さなければなりません。

この鳥たちは、阿弥陀経に出てくる共命鳥のようだしブラジルの生活の一部となっています。彼らの存在は、自然との共生を考える上で大切な示唆を与えてくれます。マリタカの姿は、寺に訪れる人々にとっても一つの癒しとなり、その存在感は決して小さくはありません。

これからも彼らとの関係を大切にしながら、お寺という空間を共に共有していける方法を模索していくつもりです。彼らの絆と共に、私たちもこの場所での生き方を考えていきたいと思います。

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2024/08/19

人を責める心で 自分を責め 己(おのれ)をゆるす心で 人をゆるせ  ポルトガル語翻訳付き

人を責める心で
自分を責め
己(おのれ)をゆるす心で
人をゆるせ


ポルトガル語

Culpe-se com a mesma medida que culpa os outros.

Perdoe os outros com o coração que perdoa a si mesmo.


スペイン語

Cúlpate con la misma medida que culpas a los demás.

Perdona a los demás con el corazón que te perdona a ti mismo.






小学 (朱熹)

https://ja.wikipedia.org/wiki/小学_(朱熹)



【人を責むるの心を以て己を責めよ】『小学』

【人を責(せ)むるの心を以(もっ)て己(おのれ)を責めよ】と読みまして、他人を責めるような厳しい心で、自分を責めるようにしなさい、という意味です。


出典は『小学』嘉言第五篇です。


  范忠宣公戒子弟曰、

  范忠宣(ハンチュウセン)公、子弟を戒(いまし)めて曰く、

     范忠宣公が子弟を戒めて言うには、


  人雖至愚責人則明、

  人、至愚(シグ)と雖(いえど)も人を責むるは則ち明かに、

   人はどんな愚かな人でも、他人を責めるときは、厳しく責めるものであり、


  雖有聦明恕己則昏。

  聦明(ソウメイ)有りと雖も己を恕(ジョ)するは則ち昏(くら)し。
反面、物事がよくわかっている人でも、自分の過失には寛大になってしまうものだ。


  爾曹但常以責人之心責己、

 爾(なんじ)の曹(ともがら)但(ただ)常に人を責むるの心を以て己を責め、

     だから、ただいつも他人を責めるような気持ちで自分を責め、


  恕己之心恕人、

  己を恕するの心もて人を恕(ゆる)せば、

     自分を許すような気持ちで、他人を許すように努めれば、


  不患不到聖賢地位也。

  聖賢(セイケン)の地位に到らざるを患(うれ)えず。

     聖人賢者になれないことを気にすることはない。



有限無限録

清沢満之 他を咎(とが)むるなかれ、他を咎めんとする心を咎めよ。

咎めんとするの心を咎めよ

他を咎むる勿れ。他を咎めんとする心を咎めよ。自の多過多失あることを知れば、他を咎むるの資格なかるべし。しかるをこれを忘れて、他を咎めんとす。これ大いに咎がむべきなり。もし或は他の過失の如き、我れ決してこれに陥ることなしとせば、まず天の我に幸するの深きを感謝せよ。他の天賦の薄きを憐念せよ。決して他を咎むるの暇なかるべし。




さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(『歎異抄』第13条)


凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(『一念多念文意』)


「人を責める心で自分を責め、己をゆるす心で人をゆるせ」


  この教えは、南宋時代の儒学者である朱熹(しゅき)によって書かれた『小学』の中に記されている言葉が原典です。

「人を責める心で自分を責め、己をゆるす心で人をゆるせ」という言葉の意味は、他人を厳しく責めるような心で自分を律し、自分を許すような寛容な心で他人を許しなさい、という意味です。人は、どんなに愚かな者でも他人の過ちには厳しく、逆に、どんなに賢明な者でも自分の過ちには寛大であることが多いものです。

 私たちも日々の生活の中で、他人の過ちにはすぐに気づき、指摘しがちです。しかし、自分自身の過ちや欠点には目をつむり、見過ごしてしまうことが少なくありません。このような姿勢では、心の成長や真の悟りには至ることは難しいのです。

また、清沢満之の言葉にも耳を傾けてみましょう。「他を咎むる勿れ、他を咎めんとする心を咎めよ。」これは、他人を責めるのではなく、他人を責めようとするその心を省みなさいという教えです。自らの多過多失を知れば、他人を責める資格などないことに気づきます。清沢満之は、自らの過ちを認め、他人の過ちには寛大であることを強調しています。

 ここで、浄土真宗の教えに立ち返ってみましょう。親鸞聖人の教えによれば、私たちは煩悩に満ちた凡夫であり、どんなに修行を積んでも煩悩を完全に消し去ることはできません。しかし、そのような私たちをも、阿弥陀仏の無限の慈悲と智慧が包み込んでくださいます。

 『歎異抄』第十三条には「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とあります。これは、私たちの行動は業によって左右され、私たちがどんな行いをするかも定められた縁によるものであるということです。この教えを受け入れることで、他人の過ちを責めるのではなく、彼らの背後にある縁や業を理解し、慈しみの心で接することができるようになります。

 阿弥陀仏の慈悲と智慧に帰依することで、私たちは自己の過ちを素直に認め、他人の過ちにも寛容になれます。またはそうならない人間の心の業の深さを教えられるのです。このようにして、私たちの心は自然と穏やかになり、やがて真の悟りへと近づいていくのです。この教えを心に留め、日々の生活においてお念仏をいただければと思います。

合掌 南無阿弥陀仏


 Hoje, gostaria de compartilhar com vocês o ensinamento encontrado no "Xiaoxue" escrito pelo erudito da dinastia Song do Sul, Zhu Xi. A frase "Culpe-se com a mesma medida que culpa os outros. Perdoe os outros com o coração que perdoa a si mesmo" tem suas origens nesse texto clássico.

O significado dessa frase é que devemos nos disciplinar com o mesmo rigor que usamos para criticar os outros e, ao mesmo tempo, devemos perdoar os outros com a mesma generosidade que usamos para perdoar a nós mesmos. Muitas vezes, somos rápidos em apontar as falhas dos outros, mesmo quando somos os mais tolos, mas quando se trata de nossos próprios erros, mesmo os mais sábios tendem a ser indulgentes consigo mesmos.

No nosso cotidiano, é comum notar e apontar rapidamente os erros dos outros, enquanto frequentemente fechamos os olhos para nossas próprias falhas e defeitos. Essa atitude dificulta nosso crescimento interior e a obtenção da verdadeira iluminação.

Vamos também ouvir as palavras de Manshi Kiyozawa: "Não culpe os outros, culpe o coração que deseja culpar os outros." Este ensinamento nos diz para não culpar os outros, mas sim refletir sobre o desejo em nosso coração de culpá-los. Quando reconhecemos nossas próprias inúmeras falhas e defeitos, percebemos que não temos o direito de culpar os outros. Kiyozawa enfatiza a importância de reconhecer nossos próprios erros e ser indulgente com os erros dos outros.

Agora, voltemos ao ensinamento do Jodo Shinshu. De acordo com o Mestre Shinran, somos seres comuns cheios de paixões mundanas e, por mais que nos esforcemos, não conseguimos eliminá-las completamente. No entanto, mesmo assim, somos envoltos pela infinita compaixão e sabedoria de Amida Buddha.

No Tannisho, artigo 13, encontramos a frase: "Se determinadas condições cármicas surgirem, qualquer comportamento poderá ocorrer." Isso nos ensina que nossas ações são influenciadas pelo karma e que nosso comportamento é moldado por essas condições. Ao aceitar esse ensinamento, em vez de culpar os outros, podemos entender as causas e condições por trás de suas ações e abordá-las com um coração compassivo.

Ao nos entregarmos à compaixão e sabedoria de Amida Buddha, podemos reconhecer sinceramente nossos próprios erros e ser indulgentes com os erros dos outros. Ou então somos ensinados sobre a profundidade do karma em nossos corações humanos. Dessa forma, nossos corações naturalmente se acalmarão e, eventualmente, nos aproximaremos da verdadeira iluminação.

Espero que vocês possam manter esse ensinamento em seus corações e, no dia a dia, recitem o Nembutsu.


Gassho. Namu Amida Butsu.


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2024/08/15

2024年 お盆法要の法話 挨拶並びに木蓮尊者のエピソード ポルトガル語翻訳付き








 今日は多くの皆様にお参りいただき、誠にありがとうございます。今年もお寺の仏教会・婦人会、並びに多くの方々のご協力により、素晴らしい法要が執り行われています。また、マリリアのダンス会のおかげで盆踊りも例年以上に盛り上がり、多くの人々で賑わい、お寺が活気に満ちていることを心から感謝申し上げます。本当にありがとうございます。


 今年はファビアさんのご提案もあり、お寺の外に提灯を飾りました。とても綺麗ですね!昔は、お寺の前の道路まで出て踊っていたと聞いておりますが、将来そのくらい大きな法要になるかもしれません。これも皆様お一人お一人の信仰のお力によるものであり、また、阿弥陀様の導きによるものと感じております。本当にありがたいことです。


 お寺の入り口には、車椅子用の通用口が完成間近です。このお寺の創設者であり初代住職の伊原善行様のお孫である伊原妙子様のご願いから始まり、多くの方々の力のおかげで実現しました。あとはペンキを塗るだけで完成です。お寺は僧侶が住む家ではなく、皆様の信仰と安らぎのための施設です。どなたでも、いつでもお参りいただけます。


どうぞ今後ともお寺をよろしくお願いいたします。



今日はお盆法要に関するお話をさせていただきます。


 お釈迦様のお弟子の中でも特に高弟であった目連尊者は、悟りを開いた後、亡きお母さんに会いに行きました。しかし、彼が見たのは、地獄で苦しむお母さんの姿でした。目連尊者はお母さんを救おうとあらゆる手を尽くしましたが、水を与えようとしても火に変わり、食事を口にしようとした途端、燃えてしまうのです。


 途方に暮れた目連尊者は、お釈迦様に相談しました。お釈迦様は、「あなたのお母さんは、息子であるあなたを助けるために地獄に落ちたのです」とお教えになりました。そして、「あなたの力だけでは助けられないので、多くの人を呼び、共にお勤めをしなさい」と説かれたのです。


 それは一体どういうことでしょうか?どんな親でも我が子を育てるためには、自分の幸福を犠牲にしても構わないという覚悟で子供を育てています。しかし、子供はそのことに気づくことがほとんどありません。目連尊者も、お釈迦様のもとで学び、立派に悟りを得た後にお母さんを救おうとしましたが、本当にお母さんを救うということは、親の無償の愛に感謝することだったのです。


 その感謝の気持ちが備わったとき、目連尊者は真の悟りを得たのです。それは、自分だけが偉くなったということではなく、全ての人と共につながり合い、皆のおかげで生かされているという、当たり前だけれども大切な悟りです。

このような理由から、盆踊りは皆で輪になって共に先祖に感謝し、仏教の教えに感謝する儀式として、ここブラジルでも大切にされています。


「南無阿弥陀仏」という言葉は感謝の念仏であり、今ここにある命がつながり合っておかげさまで生きていることに感謝する言葉です。ぜひ一日に一回は「南無阿弥陀仏」と先祖や仏様、そして周りの方々へ感謝を捧げつつ、仏壇に手を合わせてください。



    Hoje, gostaria de expressar meus sinceros agradecimentos a todos que vieram ao templo. Este ano, mais uma vez, graças à cooperação da Associação Budista do templo, da Associação das Senhoras e de muitas outras pessoas, estamos realizando uma cerimônia maravilhosa. Além disso, graças ao grupo de dança de Marília, o Bon Odori foi mais animado do que o habitual, e o templo está cheio de vida, pelo que sou profundamente grato. Muito obrigado a todos.


    Este ano, seguindo a sugestão da Sra. Fábia, decoramos o exterior do templo com lanternas. Está muito bonito, não é mesmo? Ouvi dizer que, antigamente, as pessoas dançavam até a estrada em frente ao templo. Talvez, no futuro, a cerimônia cresça tanto quanto naquela época. Isso é resultado da fé de cada um de vocês e, também, sinto que é uma orientação do Buddha Amida. É realmente algo muito gratificante.


    Estamos prestes a concluir a construção da entrada acessível para cadeirantes no templo. Este projeto foi iniciado a pedido da Sra. Taeko Ihara, neta do fundador e primeiro Monge do templo, o Sr. Zengyo Ihara, e só foi possível graças à ajuda de muitas pessoas. Falta apenas pintar para que esteja completo. O templo não é apenas a residência dos Monges, mas sim um local para a fé e a tranquilidade de todos. Todos são bem-vindos para visitar a qualquer momento.

Contamos com o seu apoio contínuo ao templo.



Hoje, gostaria de falar sobre a cerimônia do Obon.


Entre os discípulos de Buda, o venerável Mogallana, um dos mais destacados, buscou encontrar sua falecida mãe após alcançar a iluminação. No entanto, o que ele viu foi sua mãe sofrendo no inferno. Mogallana tentou de todas as formas salvá-la, mas ao oferecer-lhe água, ela se transformava em fogo, e ao tentar dar-lhe comida, esta se incendiava ao tocar seus lábios.


    Desesperado, Mogallana consultou Buda. Buda lhe disse: "Sua mãe caiu no inferno para salvar você, seu filho." E ensinou: "Você não pode salvá-la sozinho. Chame muitas pessoas e façam uma cerimônia juntos."


    O que isso significa? Qualquer pai ou mãe está disposto a sacrificar sua própria felicidade para criar seus filhos. No entanto, muitas vezes, os filhos não percebem isso. Mesmo Mogallana, que estudou com Buda e alcançou a iluminação, não compreendeu totalmente o que significava salvar sua mãe. Na verdade, salvar sua mãe significava agradecer pelo amor incondicional dos pais.

Quando Mogallana finalmente compreendeu isso, ele alcançou a verdadeira iluminação. Essa iluminação não significava apenas que ele se tornou alguém grandioso, mas sim que ele reconheceu que todos estamos conectados e que vivemos graças a todos ao nosso redor – uma realização simples, mas profundamente importante.


    Por essa razão, a dança do Bon Odori é uma cerimônia importante aqui no Brasil também, onde todos se reúnem em círculo para expressar gratidão aos antepassados e aos ensinamentos budistas.

A frase "Namu Amida Butsu" é uma expressão de gratidão, agradecendo pela vida que temos graças às conexões que compartilhamos. Peço que todos, pelo menos uma vez ao dia, recitem "Namu Amida Butsu" em gratidão aos ancestrais, a Buda e às pessoas ao seu redor, enquanto prestam suas homenagens ao altar budista.


Muito obrigado pela atenção.



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