2024/04/05

『凡夫』とは お経の鏡に映る 私の姿 "Ser tolo" é o meu verdadeiro reflexo no espelho dos Sutras.



『凡夫(ぼんぶ)』とは

お経の鏡に映る

私の姿



"Ser tolo" é o meu verdadeiro reflexo no espelho dos Sutras.




資料


腹立たば 鏡を出して 顔を見よ
 鬼の顔が ただで見られる

凡夫というは
今月のことばに出会い、親鸞聖人のことばを思い出しました。

「凡夫」は、すなわち、われらなり。 (中略)
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、 ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと
(『一念多念文意』 真宗聖典544・545頁)

(試訳)
凡夫というものは、煩悩が我が身に満ち満ちています。欲も多くて、怒り、腹立ち、そねみ、ねたみ、それらのこころを多く持っています。しかも、それらのこころが時折顔をのぞかせるのではなく、一瞬の間もなく、臨終のそのときまで止まることがありません、消えることがありません、絶えることがありません。そんな凡夫とは、私のことですと(親鸞聖人は告白されました)



経は鏡なり

善導大師に、「経教(きょう)はこれを喩(たと)うるに、鏡のごとし」ということばがあります。「お経(お釈迦さまの教え)は、喩えるならば、私を映し出す鏡です」と。


「経といふは経〈たて〉なり。経よく緯〈ぬき〉を持ちて疋丈〈ひつじょう〉を成ずることを得て、

その丈用〈じょうゆう〉あり。経〈きょう〉よく法を持ちて理事相応し、定散〈じょうさん〉機に随ひて義零〈ぎれい〉落〈らく〉せず。」

『観経四帖疏』玄義分

「これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋〈たず〉ぬれば、智慧を開発す。」

『観経四帖疏』序分義


    経は教、鏡〈かがみ〉


お経は、悩み苦しみを取り除いて くれる有り難いことばではありません。あるがままを説いた当たり前のことばです。けれど、あるがままを受け容れることはなかなか難しいものです。

日常、鏡を見るとき、自分の良い面しか見ません。あるいは、良く見えるように体裁を整えます。鏡に映る自分の姿といっても、自分のお気に入りの所だけ見ていては、私の本当の姿を見ることはできません。

お経のことばに触れる、仏法聴聞するとは、私の本当の姿を映し出してもらうことです。耳障りの良いことばを聞くためでも、自分を正当化するためでもありません。あるがまま、そうなるようにしてなった、つまり、縁をいただいて成った私であることを聞くのです。

そしてもうひとつ。鏡は、光を集めて反射することによって、ものが映ります。同様に、鏡に喩えられる経を通して、阿弥陀如来の光明に照らされている私の姿が見えてきます。

煩悩は、自分で意識しているときだけ現われ出るのではありません。自分で意識していないときも常に煩悩は表出しています。臨終の一念まで煩悩のこころがなくなることがないという親鸞聖人の告白は、いつまでも阿弥陀如来の光明に照らされてある私ですという告白です。

腹が立ち、鬼の形相になったとき、本当は自分が一番つらいはずです。怒りのこころを持ち合わせる自分であるという気付きは、自分で自分に噛みつくような痛みを伴うものですから。とはいえ、怒りのこころを臨終の一念まで持ち合わせるのが私です。阿弥陀如来の支えと共に、私はあります。


わが心

  鏡に映るものならば

   さぞや姿の

    みにくかるらん

        田辺 親子




『凡夫』という言葉は、私たちが持つ無明や煩悩を指すものであり、これらは日々の行動や思考に深く根ざしています。お経、特に浄土真宗において重要視される教えでは、これらの煩悩が悟りへの道を阻む障害であるとされています。しかし、これらを認識し、受け入れることが、真の悟りへの第一歩となるのです。


お経は、まるで鏡のようなものです。この鏡には装飾もなく、ありのままの私たちを映し出します。日常生活で私たちが見る鏡は、時に自分の姿を良く見せようとしたり、欠点を隠そうとしたりします。しかし、お経の鏡は違います。お経の鏡は、私たちの内面、そして真実の姿を映し出します。私たちが持つ怒り、欲望、嫉妬などの煩悩は、この鏡を通じてはっきりと見えるのです。


親鸞聖人は、「凡夫」であることを自認しました。これは、自らの煩悩に満ちた存在であることを深く自覚し、それを受け入れることから始まります。私たちは、自らの煩悩を認め、それに直面する勇気が必要です。この勇気が、私たちを真の悟りへと導く鍵となります。


お経を聞くこと、仏法に触れることは、自己の真実を知ることです。耳障りの良い言葉を求めたり、自己正当化を目指したりするのではなく、自己の真実を受け入れることが重要です。そして、この過程で阿弥陀如来の光明に照らされることにより、私たちは自己の本質をより深く理解することができます。


煩悩は、私たちが意識しているときだけでなく、無意識のうちにも常に存在しています。親鸞聖人が語ったように、臨終の一念まで煩悩は消えることがありません。しかし、これを悲観するのではなく、阿弥陀如来の無限の慈悲と共に、私たちは存在するのです。怒りや憎しみを感じたとき、それは自己への苦痛でもありますが、同時に自己を深く理解する機会でもあります。


お経の鏡に映る「凡夫」の姿を通じて、私たちは自己の真実に目を向け、阿弥陀如来の慈悲の光に照らされることで、真の悟りへの道を歩み始めることができます。この道は容易なものではありませんが、お経と仏法の導きにより、私たちはその道を歩む勇気と希望を持つことができるのです。



A palavra "凡夫" refere-se às nossas ignorâncias e desejos incontroláveis, que estão profundamente enraizados em nossas ações e pensamentos diários. No ensinamento budista, esses desejos incontroláveis são considerados obstáculos no caminho para a iluminação. No entanto, reconhecer e aceitar essas paixões é o primeiro passo para a verdadeira iluminação.


Os sutras são como um espelho, sem adornos, refletindo-nos como realmente somos. Os espelhos que usamos no dia-a-dia podem, às vezes, ser usados para melhorar nossa aparência ou esconder nossas imperfeições. Mas o espelho dos sutras é diferente. Ele reflete nosso interior e nossa verdadeira forma. Através dele, nossas raivas, desejos e invejas, que são as paixões, ficam claramente visíveis.


Mestre Shinran reconheceu-se como um "凡夫". Isso começa com a profunda autoconsciência de ser um ser cheio de paixões e aceitá-lo. Precisamos ter a coragem de reconhecer nossas próprias paixões e enfrentá-las. Esta fé é a chave que nos leva à verdadeira iluminação.


Ouvir os sutras e entrar em contato com o Dharma é conhecer a verdade sobre nós mesmos. Não se trata de procurar palavras agradáveis ou tentar justificar nossos atos, mas de aceitar nossa verdadeira natureza. E, neste processo, ao sermos iluminados pela luz de Buda Amida, podemos entender mais profundamente nossa própria essência.


As paixões existem não apenas quando estamos conscientes delas, mas também inconscientemente, o tempo todo. Como Mestre Shinran disse, essas paixões não desaparecem até o momento de nossa morte. No entanto, em vez de desesperar, devemos reconhecer que existimos junto com a infinita compaixão de Buda Amida. Sentir raiva ou ódio pode ser doloroso para nós, mas também é uma oportunidade para um entendimento mais profundo de nós mesmos.


Através da imagem do "凡夫" refletida no espelho dos sutras, começamos a olhar para a verdade sobre nós mesmos e, iluminados pela compaixão de Buda Amida, podemos começar a caminhar no caminho para a verdadeira iluminação. Este caminho não é fácil, mas com a orientação dos sutras e do Dharma, podemos encontrar a coragem e a esperança para continuar nossa jornada.


「ブラジル・シュウちゃんねる」

↓いいね評価、チャンネル登録よろしくお願いします↓



0 件のコメント:

コメントを投稿

いま、注目の投稿はこちら

お寺の近所のイバンさんが感動的なコメントをくださいました。日本語訳あり。「ノーベル平和賞、日本被団協に」

まずはこのニュースをご覧ください。 ノーベル平和賞、日本被団協に 被爆者証言が「核のタブー」成立に貢献と評価 https://www.bbc.com/japanese/articles/ckgnp02v5r0o 以下イバンさんの送ってくださったメッセージです。 Prêmio ...

人気の投稿はこちら