欲しいものは
沢山あるけれど
必要なものは
そう多くない
宰務清子 (さいむ きよこ)
ポルトガル語
Ha muitas coisas que desejo, mas não são muitas as coisas que necessito.
スペイン語
Hay muchas cosas que quiero, pero no son muchas los cosas que necesito.
Kiyoka Saimu
欲しいものは
沢山あるけれど
必要なものは
そう多くない
宰務清子 (さいむ きよこ)
ポルトガル語
Ha muitas coisas que desejo, mas não são muitas as coisas que necessito.
スペイン語
Hay muchas cosas que quiero, pero no son muchas los cosas que necesito.
Kiyoka Saimu
感話
「欲しいものは沢山あるけれど 必要なものはそう多くない 」という言葉は、人々の欲求と実際の必要性との間に存在するギャップを示しています。
例えば、
- 物質的欲求と実際の必要性:
現代の消費社会では、私たちは多くの物やサービスを欲しがることが多いですが、それが実際に日常生活で必要とするものとは異なる場合が多いことを指摘しているかもしれません。
2. 満足感と欲求:
人々は多くのものを持つことで幸福感を得ようとするかもしれませんが、実際には必要なものはそれほど多くないということを理解することで、シンプルな生活の価値や本当の満足感に気づくかもしれません。
3. 優先順位の整理:
望むものと必要とするものの違いを理解することで、人々は自分の生活において何が最も大切であり、何に投資すべきかをより良く判断できるようになるかもしれません。
4. 過剰消費と持続可能性:
環境や社会的な観点から、必要以上に物を消費することの問題点を考える際にも、この文章は参考になるかもしれません。本当に必要なものだけを求め、無駄な消費を避けることで持続可能な生活や社会を築くヒントを提供しているとも取れます。
このような解釈や示唆は、読者の背景や状況によって異なることがあります。しかし、この文章は多くの人々にとって、自分の欲求や価値観を再評価するきっかけを教えてくれます。
しかし気をつけなければいけないのは上記の文章を搾取する側が都合よく使う場合なのです。「欲しがりません、勝つまでは」と戦時中に使われ人々が先導されて今なおその精神は宗教的言葉の衣を纏って人を誑かしているのです。
このような考え方や文章が、搾取する側(たとえば、企業や上層部など)によって労働者や消費者を抑えつけるために都合よく使われる場面も考えられます。例えば、労働者に十分な給与や福利厚生を提供しないことを正当化するために「本当に必要なものは少ない」という理念を押し付けるような形で使われることも考えられます。
そのような搾取的な使用を回避するための視点を以下に示します:
1. 人間の尊厳と基本的権利:
すべての人には基本的な人権があり、それには適切な生活水準、健康、教育、そして文化的な生活を享受する権利も含まれます。この権利を守るためには、必要なリソースや機会が提供されるべきです。
2. 文化的・社会的背景の理解:
人々の「必要」と「欲求」は、文化や社会的背景によって異なることを理解することが重要です。ある文化や環境では必要とされるものが、別の文化や環境では欲求とされるかもしれません。
3. パワーバランス:
搾取する側とされる側の間のパワーバランスを常に検討し、一方が他方に何かを強要することなく、公平な関係が築かれているかを確認することが必要です。
4. 透明性と対話:
問題や懸念についてのオープンな対話と透明性が求められます。搾取する側が何らかの理由で「必要なものは少ない」という考えを推進する場合、その背景や動機、そしてその結果として何を期待しているのかを明確にし、それに対して議論やフィードバックを受け入れる機会を提供することが重要です。
5. 教育と情報提供:
人々が自らの状況や権利を理解し、それに基づいて適切な判断や選択を下せるように、教育や情報提供の機会を増やすことが必要です。
このような視点や考え方を持つことで、搾取的な状況や悪用を防ぐことができるでしょう。
ところで「少欲知足」という言葉がありますが、『大無量寿経』によれば、法蔵菩薩の徳として語られています。また阿弥陀仏の光明に出会ったものが授かる功徳として説いてあります。
「少欲知足にして、染・恚・痴なし」
真宗聖典P27
「染・恚・痴」とは貪り(飽くことのない欲望)・怒り・愚かさ(愚痴・無明)のことを言います。
「少欲知足」とは人間が阿弥陀の光明に会うときに授かる功徳ですが、親鸞聖人はその人間について次のように述べています。
仏意測り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあく わぜん)にして清浄の心なし。虚仮諂偽(こけ てんぎ(へつらい、いつわること))にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫(ひびん)して、不可思議兆載永劫(ちょうさい ようごう)において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念·一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍·不可思議·不可称·不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩·悪業·邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
真宗聖典P225
また『十輪』に言わく、「もし我が法に依って出家して悪行を造作せん。これ沙門にあらずして自ら沙門と称し、また梵行にあらずして自ら梵行と称せん。かくのごときの比丘、よく一切の天·龍·夜叉、一切善法功徳伏蔵を開示して、衆生の善知識とならん。少欲知足ならずといえども、剃除鬚髪して、法服を被着せん。この因縁をもってのゆえに、よく衆生のために善根を増長せん。
真宗聖典P365
『浄土論』に曰わく、「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまえり。この文のこころは、仏の本願力を観ずるに、もうおうてむなしくすぐるひとなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむとのたまえり。「観」は、願力をこころにうかべみるともうす、またしるというこころなり。「遇」は、もうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。「無」は、なしという。「空」は、むなしくという。「過」は、すぐるという。「者」は、ひとという。むなしくすぐるひとなしというは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。「能」は、よくという。「令」は、せしむという、よしという。「速」は、すみやかにという、ときことというなり。「満」は、みつという。「足」は、たりぬという。「功徳」ともうすは、名号なり。「大宝海」は、よろずの善根功徳みちきわまるを、海にたとえたまう。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに、とくみちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつがゆえに、大宝海とたとえたるなり。 真宗聖典P365
つまり「小欲知足」とは仏様のあり方を示すのです。私たちは一つもそれができない存在であると照らされるところに、仏様に出遇い、光明に照らされる功徳をいただけることになります。
したがって、
欲しいものは
沢山あるけれど
必要なものは
そう多くない
という言葉は、仏教の教えに照らされることがなければ「以前より欲深さが少なくなりました」というところで止まってしまいます。
さらに「お前は欲深いから成功しないのだ」とか「大欲をもて」という下劣な精神を後押しする言葉として機能することになるのです。
仏教の言葉は人に教えるものではなく自分に語りかけ聞きいただく教えなのです。
南無阿弥陀仏
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2023 Agosto
小欲知足
自体満足
自己満足
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