今日のブログは定期的に行っているもう一つのブログnoteの宣伝です。
仏教のポルトガル語のテキストと日本語の原文、そして日本語の現代語訳や語句の意味を掲載しています。
もうブラジルに来て14年目になりますが、現在ブラジルのマリリア市という場所のマリリア真宗本願寺という場所で僧侶として働いています。
この世がコロナになる少し前からYouTubeで毎朝のお勤めを生中継しているのですが(このブログの最下部に今日の内容を表示させておきます)お勤めの後の法話の代わりに、ポルトガル語に翻訳されたテキストを読んで感想を述べるのを日課にしています。その時にネットで見ている人にもテキストを配れたらいいという思いで作ったのがnoteのブログです。このブログは広告が一切ないのでまさにノートのように見やすく参照しやすいのが特徴です。
たまにこちらのブラジル日記にもその内容をアップしつつ、noteの宣伝を兼ねさせてもらっています。ちょっと難しいかもしれませんが、日本の仏教の教えがこうやってポルトガル語になってるなんてすごいことだと思います。仏教の教えは人間の迷いや苦しみを解決する教えで、現代の私たちにも通用する大切な教えです。ここブラジルはカトリックやキリスト教の教えが大勢を占めていますが、仏教の教えに惹きつけられる人も年々増えています。
毎日少し仏教の言葉に触れることが、人生の糧となるでしょう。毎日水を飲み、食事をするように一緒に仏教の教えに触れてみてはいかがでしょうか?
ポルトガル語の勉強にもなると思います。
口伝鈔 第九章. Capítulo 10
Capítulo 10
Uma explanação a respeito do Décimo Oitavo Voto
"Este Buda atualmente permanece na Budeidade44". Esta declaração em uma edição popular diz: "(Este Buda) está neste mundo", No entanto, os professores de Kurodani e Honganji45 omitem o ideograma para "mundo" ao citar esta passagem. Depois de deliberar sobre isso, eu também decidi omitir tal palavra.
Qual é a justificativa? Primeiro, o Sutra Mahāyāna Abhisamaya diz: "Todos os Budas da budeidade na Terra Pura são corpo de recompensa46 e todos os Budas da budeidade que habitam esta terra contaminada são corpos de transformação47." Esta passagem revela que o grande Mestre Shan-tao não usou o ideograma “mundo" que apareceria para tornar este princípio superficial e vulgar, ao esclarecer o princípio do corpo recompensa e Terra da Recompensa.
É provavelmente porque não faria muito sentido se Tathagata Amida na Budeidade na Terra Pura for expressa como "(Amida) agora neste mundo." Entretanto, como a Terra Pura é muitas vezes interpretada como o mundo da suprema alegria, algumas pessoas podem perguntar-me como é que o ideograma "mundo" contradiz o significado do corpo da recompensa e da Terra da Recompensa. Na verdade, é uma das teorias que nossa escola usa para explicar a Terra Pura em palavras simples. Outras escolas também parecem aplicar o ideograma "mundo" para explicá-lo em termos mundanos. O Abhidharma-kośa, capítulo de Loka diz, "o mundo receptáculo é suportado pelo disco do vento." Isto mostra quando o mundo material é discutido, o ideograma ("mundo") é usado. É, sem dúvida, bem fundamentado porque o Bodhisattva Vasubandhu escreveu isso.
No entanto, no Verdadeiro Ensinamento baseado no entendimento de Mestre Shan-tao, a teoria do corpo de recompensa e Terra da Recompensa já foi estabelecida como uma orientação normativa. Ao recordar a passagem do Tratado de Vasubandhu, "Quando contemplamos esse mundo, ele ultrapassa os caminhos do mundo triplo48", para expor o Tathagata Amida cuja verdadeira realização que torna a Terra do "mundo" ser usado? Isso sugere razões para omitir este ideograma. Em vez de lê-lo como, "Este Buda está agora presentemente na budeidade", claramente soa melhor, e de um ponto de vista da lógica e da ideia-chave expressa, este ideograma "mundo" literalmente não tem lugar. Ao discutir este ponto defendido por ambos os patriarcas, Mestre Hônen o mais sábio de todos os nomes famosos das Oito Escolas (especialmente aquelas que tomam a posição dos Três Tratados), disse: "Embora nenhuma linhagem exponha o Voto desta forma, a interpretação do Verdadeiro Ensinamento da Terra Pura faz mais sentido para mim."
44
Da obra Hinos de Louvor do Ir-Nascer [Ojöraisan]do Mestre Shan-tao “
45
Respectivamente Hōnen e Shinran
46
Em sânscrito,[Sambogakaya], é a manifestação da verdade em forma absoluta, para além da necessidade de discriminação em conceitos. Representa a Verdade que está além da forma e da ideia.
47
Em sânscrito, [Nirmanakaya], é a mais concreta das manifestações, que adquire um corpo, aparecendo em benefício dos seres. Corresponde ao corpo manifestado de Buda.
48
"Em sanscrito, [Triloka] - O Mundo Tríplice são os mundos dos desejos, da forma e sem-forma.
原文
第十八願取意の文
(10)
一 十八の願につきたる御釈の事。
「彼仏今現在成仏」(礼讃)等。この御釈に世流布の本には「在世」とあり。しかるに黒谷·本願寺両師(源空·親鸞)ともに、この「世」の字を略して引かれたり。
わたくしにそのゆゑを案ずるに、略せらるる条、もつともそのゆゑあるか。まづ『大乗同性経』にいはく「浄土中成仏悉是報身(ほうじん) 穢土中成仏悉是化身」(意)[文]。この文を依憑(えひょう)として、大師(善導)、報身報土の義を成ぜらるるに、この「世」の字をおきてはすこぶる義理浅近(せんごん)なるべしとおぼしめさるるか。そのゆゑは浄土中成仏の弥陀如来につきて、「いま世にましまして」とこの文を訓ぜば、いますこし義理言はれざるか。極楽世界とも釈せらるるうへは、「世」の字いかでか報身報土の義にのくべきとおぼゆる篇(へん)もあれども、さればそれも自宗におきて浅近(せんごん)のかたを釈せらるるときの一往の義なり。
おほよそ諸宗におきて、おほくはこの字を浅近(せんごん)のときもちゐつけたり。まづ『倶舎論』の性相[「世間品」]に、「安立器世間風輪最居下(こげ)」と等判ぜり。器世間を建立するときこの字をもちゐる条、分明なり。世親菩薩(天親)の所造もつともゆゑあるべきをや勿論(もちろん)なり。しかるにわが真宗にいたりては善導和尚の御こころによるに、すでに報身報土の廃立をもつて規模とす。しかれば、「観彼世界相勝過三界道」(浄土論)の論文(ろんもん)をもつておもふに、三界の道に勝過せる報土にして正覚を成ずる弥陀如来のことをいふとき、世間浅近(せんごん)の事にもちゐならひたる「世」の字をもつて、いかでか義を成ぜらるべきや。
この道理によりていまの一字を略せらるるかとみえたり。されば「彼仏今現在成仏」とつづけてこれを訓ずるに、「かの仏いま現在して成仏したまへり」と訓ずれば、はるかにききよきなり。義理といひ文点(もんてん)といひ、この一字もつともあまれるか。
この道理をもつて、両祖の御相伝を推験して八宗兼学の了然上人(りょうねんしょうにん)[ことに三論宗]にいまの料簡を談話(たんかい)せしに、「浄土真宗におきてこの一義相伝なしといへども、この料簡もつとも同ずべし」と[云々]。
現代文
第十八願に関するご解釈のこと。「彼の仏は今現(いまげん)に仏と成って在(おわ)します」などと(『往生礼讃』に)(注1) 詠われている。このご解釈について、世の流布本では「世に在します」とある。ところが黒谷の法然上人と本願寺の親鸞聖人の両師ともに、この「世」の字を省略して引用された。わたし一個の考えをもってこの理由を考えてみると、省略されたことは、確かにその理由があるのではないか。まず 『大乗同性経』(注2)には、「浄土で仏となっておられる方は、すべて報身(注3)であって、この穢土(注4)で仏となっておられる方はすべて化身(注5)である」と言っている。この文をよりどころとして、善導大師は(注6)阿弥陀仏の報身・報土の義を成立されるには、この「世」の字をそのまま文中に置いたのでは、はなはだしくこの文の意味するところや筋道が浅薄になるだろう、とお考えになったものであろうか。その理由は、「浄土の中にあって仏と成」っておられる阿弥陀如来について「いま世においでになって」と、この文を読むならば、いま少し意味や筋道が成りたたないからではないか。「極楽世界」とも解釈しておられる以上は、(注7)「世」の字がどうして報身・報土の義にそむくようなことになろうか、と考えられるふしもあるけれども、しかしこうした考え方もわが宗ではわかりやすく常識的解釈をされるときに立てる一往の説である。
おおよそ諸宗においては、多くはこの「世」の字を常識的な説明のときに用いる習慣になっている。まず 『倶舎論』(注8)へ世間品には「器世間をささえて、風輪はもっとも下に居る」と判じているように、器世間をたてる場合にこの字を用いていることが明白である。世親菩薩の著書〔にしめすところ〕であるから、もっとも理由があることはいうまでもない。もちろんのことである。ところがわが真宗においては、善導和尚のお考えによって、すでに阿弥陀仏の報身・報土を自説と立てて、他説を廃することを手本とする。したがって「かの世界の相を観ると、(注9)三界(注10)の道に勝れ過っている」という 『浄土論』の文をもって考えあわせると、三界の道に勝れまさっている真実の浄土にあってさとりを完成した阿弥陀仏のことをいう場合に、世間の常識的な事を説明するのに用いてきた「世」の字をもって、どうして報身・報土の義を成立することができようか、できないのである。この理由によって、いまの一字を省略せられたものか、と考えられる。だから「彼の仏は今現に仏と成って在します」と続けて、この文をよむときに「かの仏はいま現においでになって仏と成っておられる」とよめば、遥かに聞き易いわけである。意味内容からも、文章の構成からも、この一字はもっとも不必要ではないか。この道理によって両祖師の伝えられたお考えを推しはかって、八宗兼学の了然上人(とくに三論宗〔を学ばれたひと〕)にいまのような理解をお話ししたところ、「このことについて教えを受け伝えてはいないが、浄土真宗において理解されたところが、わたしには一番同意できる」と言われた。
注
1
『往生礼讃』にこの文は善導の 『往生礼讃』の文で、そこには「彼仏今現在世成仏」(真宗聖教全書一。六八三)とあるが、いまそのなかの「世」を除いた文を掲げて、その理由を論ずるのである。法然はこの文を 『選択集』に引用(同一。九四〇)し、親鸞自身もこれを 『教行信証』行巻に引用している(同二・二〇ー1)。
2
『大乗同性経』ここに掲げる 『大乗同性経』(大正大蔵経一六)の文は「浄土中成仏、悉是報身。穢土中成仏、悉是化身」とあるが、これは同経下巻の意を取ったもので、この文は、道綽の 『安楽集』上巻に同経の文として引用しているもの(同一・三八三)と一致する。したがって覚如はこの文を 『安楽集』から孫引きしたものである。 『往生要集』第一〇章、第一にもこの 『安楽集』の文を引用している(石田瑞麿(みずまろ)」訳 『往生要集』 2、二四八ページ。東洋文庫所収)。
3
『敷異抄』第一章注一参照。一ニページ。
4
穢土
煩悩にけがれているところという意で、われわれのすむ、この姿婆世界である。浄土に対する。
5
化身
仏が姿をかえてあらわれたもので、権化などともいう。親鸞がいう方便報身はこれと同じではない。
6
善導大師は
善導は 『観経疏』玄義分で、みずから問答を設けて、阿弥陀仏の浄土は報土か化土か、と論じて、『大乗同性経』に説くように、「西方の安楽の阿弥陀仏はこれ報仏・報土」(同一・四五七)と答えている。
7
極楽世界と解釈しておられる
主として善導を考えてよいが、かならずしも善導だけがこの表現を用いるのではない。
8
『倶舎論』
第十一巻分別世品に説かれる詩である(大正大蔵経二九。五七上)。これは仏教世界観の一端を示すもので、われわれの住む山河、大地などの器世間をささえる、基盤を構成しているものに風・水・金の三輪があって、風輪は最下部にある、という考え方である。
9
かの世界の相……世親の 『浄土論』の詩に見られる(同一・三六九)。
10
三界
欲界・色界・無色界の三であるが、生を享けるものが生れかわり、死にかわる流転輪廻の迷いの世界を階位の上から三っに分けたもの。
11
了然
『最須敬重絵詞』第六巻によれば、光明寺の自性房了然は三論宗のひとで、京極中納言定家の嫡子光家の子である。禅を道隆に学んだという(同三。八四八)。
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2021/10/14の朝のお勤めの様子
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